枠組みから逃れる思考を
ルールを守ることに固執し過ぎる人たち
若手社員と話をしていると、枠組みに捉えられた思考しかしないな、と思う時がある。
ルール・ベース至上主義というか。
いや、これは若手社員に限った話ではなく、(最近の)日本人全体に言えることなのかもしれない。
ある物事へのアプローチ方法として、既存の枠組みやルールの中から物事を考えること。
そんなの当たり前でしょ?
そう思われる方が大半だろうし、それは必ずしも間違ってはいない。
でも、何というか、原理主義というか、ルールに固執しすぎているような印象を受けるのだ。
目的を見失って、ルールを守ることばかりに目を奪われているというか。
よくわからないかもしれないけれど、今日はそんなことを書いていく。
なぜルールを守る必要があるのか?
「ルールを守るのって、なぜなんですかね?」
そう問うと、「こいつは何を言っちゃっているのか?」という変な空気になることが多い。
もちろん、何でもかんでも難癖をつけるように言うのは違う。
その場の流れに乗ることが良い場合も多い。
ただ、あまりにもその傾向が強すぎると、それはそれで問題であるような気がするのである。
そして、その傾向は強まっているような気がしている。
二次元のまま。平行線のまま。
僕のチームの若手同士がいがみ合っている時があって、よくよく話を聞いてみると、僕が定めたルールの文言の解釈の違いで揉めているようであった。
そもそもの話として、僕が決めたルールなので、まずは僕に聞けばいいと思うのだけれど、それはせず、二人で永遠と言い合っているのがまず疑問である(きっと僕が怖すぎて、気軽に話しかけることもできないのだろう)。
次に、その解決策というか、「じゃあ、どうしたらこの問題って解決できるのだろうか?」という方向に思考が向いていかないところにも疑問を覚える。
平行線のままでは、何も生まない。
もっと言うなら、対案がないところに、解決は生まれない。
どちらにとっても「まあ納得できる」という「落としどころを探る」技術は、どうやら失われてしまったようである。
2次元の平面上でいがみ合い続けているという感じ。
「じゃあ、それを3次元にしてみたら?」というのが今日の話である。
今回のこの例で言うなら、「そのルール自体をやめてみたら?」という思考の流れである。
ルールが効果的でないなら、取っ払ってしまったら?
僕がそのルールを定めたのは、ある問題があって、それを解決するための最大公約数的な考え方がそれであったから採用しただけであって、具体的な両者がそれに満足できないなら、「それ以外の方法を考えるしかないのでは?」と僕は思うのだけれど、どうもそのルールの枠組みの中で解決策を見つけるしかない、と思い込んでいるような感じなのである。
「意味ある?」と僕は思う。
「その時間無駄じゃね?」と感じる。
大事なのはルールを守ることではなく、問題を解決することだ。
でも、ルールを守ることが最優先事項になってしまっている。
そして、そのルールを定めた僕がそのルール自体を取っ払うことに、何の躊躇いも感じていないことなんて想像もできないようである。
ルール自体を変えることを提案すると、異常者だと思われる
これは学校教育によるものなのか、子育てによるものなのか、日本のそもそもの問題なのか、僕にはよくわからない。
ルール警察みたいなギスギス感、社会への信頼の喪失、そんなことも関係しているのかもしれない。
僕からすれば、ブラック校則みたいなものが世の中にはたくさんあって、それを定めた人ですらその当初の目的が何だったのかわかっていないのに、それを後生大事に守り続ける意味ってあるのか、と思うのである。
そこにいる当事者たちが、「現在の実情に合わせて改変していけばいいのでは?(もちろん程度はあるだろうけれど)」と思うし、その方がみんながやり易くなるのではないかと思うのだけれど、そう考える人は本当に少ない。
というか、正確に言うなら、奇異な目で見られる。
「そんなことやっていいの?(言っていいの?)」「こいつヤバくね?」みたいな感じなのである。
社会秩序を維持する為にルールを守るということはありえるが…
僕はその「謎ルール」に囚われている方が変だと思う。
もちろん、「謎ルール」を守ることは、社会的な秩序を維持する、ということを目的としている部分はあると思う。
でも、それはみんながその謎ルールを謎だよねと少なくとも思っている必要がある。
盲目的に信じている訳ではなく、「まあ、意味不明だけど(笑)」くらいのノリが共有されている必要がある。
でも、現代は違う。
それがガチなのだ。
本当に心から、それを守ることが使命だと思っているくらいのガチ感。
それに僕は引いてしまう。
というか、恐怖を覚える。
ルールも、逸脱も大事
もちろん、程度の問題ではある。
何でもかんでも意味を問うていたら、物事は回らなくなる(だからルールがある訳だ)。
でも、時には、そこから逃れる方法はあるということは理解しておきたいのだ。
ルールを守ることは正しい。
それは否定しない。
でも、そこに囚われたら、主体と客体が逆転したら、疑った方がいい。
「このルール自体を取っ払った方が、皆が幸せになるんじゃない?」という思考形態は持っておいた方がいい。
それではまた。
いい仕事をしましょう。
あとがき
ルールを守ることは無条件で良いことではない。
そういうイメージが伝わらない人が増えているような気がしています。
そして、その人たちは自分たちがルールを策定できるとも思っていない、というか。
以前、官治と自治という言葉を書いたことがありますが、日本人はその歴史のせいなのか元々の習性なのか、「お上が決める、我々はそれに従う」「それに逆らってはいけない」という考え方が染みついてしまっていて、それを自分たちがどうこうできるとは想像もしていないような印象を僕は受けます。
もっと言うなら、自分たちで決めることの責任を負いたくない、という逃げの姿勢もそこには含まれていて、「我々は偉い人が決めたルールのせいで被害を被っている」「被害者である」という姿勢を彼(彼女)らは意図的に取り続けたいのではないか、と思う時もあります。
その結果が文句だけを言い、対案を出さず、責任を取ろうともしない人達の大増殖です。
そして、若者たちもその例外ではありません(むしろ悪化している?)。
新しいルールを作るには責任が伴います。
そのリスクを負う覚悟を持つ人だけが次に進めます。
枠組みに囚われず、本質を見極めていきましょう。