主語を一人称にする

UnsplashBrett Jordanが撮影した写真

大事なのは「私が」どう思うか

主語を付けて話をすること。

このブログでは昔からそれを重要なことだと説いてきた。

今日もその焼き直しである。

というか、違う角度からの話である。

以前に書いた主題では、「主語を付けることで責任を明確にする」というのがその趣旨であった。

「日本語は主語を付けないでも通じるけれど、責任が曖昧になるので、できるだけ避けた方がいい」

そんな話であった。

今回はちょっと違う。

感情面の話である。

仕事で何か感情が動くことがあった場合、僕たちは直感的にその対象物を主語にしてしまいがちだ。

「アイツが」とか「会社が」とか。

もちろん、それは反射に近いものなので、そう思ってしまうのは仕方がない。

でも、そのまま口に出すのではなく、一旦頭を冷やして、主語を自分に変える。

そうなのだ。

大事なのは「私が」どう思ったか、である。

そして、それを言語化する。

「ああ、○○によって私は怒って(ここの感情は何でもいい)いるんだなあ」と。

それによって、メンタルをコントロールできる範囲は大きく広がる。

今日はそんな話である。

他人に興味がないのが前提ではあるけれど

アンガーマネジメントについて聞かれることがある。

もっと普通の言葉で言うなら、「ウエノさんは怒らないですよね。どうやって感情をコントロールしているのですか?」と問われることがある。

この文脈で言えば、「そもそも他人に興味がない」ということが前提としてはあると思う。

僕は他者に興味がない。

ましてや、職場における人間たちへの興味は殆どない。

それがベースにある。

でも、それだと多くの人には役に立たないと思われるので、今日はもう少しテクニカルな話をする。

それが主語を一人称にする、ということである。

「受動性」や「被害者性」を「主体性」に変える

怒り(やその他の強い感情)が引き起こされるのは、外部にあるものによって自分が影響を受けている、それは好ましくない、という流れによって生じている、ことが多いように思う。

何らかの外的なトリガーがあって、それによって怒りのスイッチが押される、というか。

ここにあるのは「受動性」だと思う。

もっと言えば、「被害者性」だと思う。

僕はこれを「主体性」に変えることがアンガーマネジメント(というか感情のコントロール全般)において重要だと考えている。

外部に要因があっても、感情は反射的であっても、その受け止め方は変えられる(はずだ)

何らかの外的な刺激は、我々にはコントロールできない。

それによって引き起こされる感情も、(大抵の場合)コントロールできない。

ただ、それをどのように受け止めるか、はコントロールできるように思うのだ。

これは英語で考えると分かり易いかもしれない。

感情を動かす要因によって、感情が「動かされた」という受動態の表現。

「~された」というある種被害者的表現。

もしくは、対象物が主語となる表現(○○ get me mad.)。

これでは感情(例えば怒り)や他者に振り回されてしまう。

これを自分を主語に変える。

「私がどう思ったか」

「私がどう感じたか」

コントロールしているのは私なのだ、と自分に言い聞かせること。

それが感情を安定させる為には重要なことである。

(できたら)俯瞰してしまえ

ここまでできれば、大抵の事象には対応できるようになる。

それを更に一歩進める。

今度はその私を俯瞰する、ということである。

「私は○○によって怒っているのだなあ」というように、第三者的な目線をそこにいれる。

もしくは、三人称を導入してト書きのように説明してしまってもいい。

「ウエノは○○によって怒っているのであった」というように。

ただ、これだとやや行き過ぎというか、非現実的な感じもするので、まずは「私は○○によって怒っている」くらいで留めておくのが良いと思う。

そうやって主体性を取り戻すこと。

被害者性を減じること。

それが感情をコントロールする為には重要である。

主体性を取り戻す

僕たちは他責の生き物である。

何か気に食わないことがあると、それを他者(外部のもの)のせいにしてしまう。

それは変えられない(というか、変える為には相当な修練が必要だろう)。

でも、受け止め方や捉え方は変えることができる。

いや、もう少し正確に言うなら、受け止め方や捉え方も含めて大きくは変えられないかもしれないけれど、少なくとも主体性を取り戻すことはできる。

それが結構大事なことであるように思うのだ。

大人になる=主体的に世界を生きること

これは「大人になる」ことだとも言える。

外部環境を受け止めて、どのように振舞うかを考えること。

それはある種の諦念が入り混じっているものではある。

そしてそのことをネガティブに捉える人もいるだろう。

でも、僕はそうは思わない。

なぜなら、そこには主体性があるから

自分が世界の中心であるという世界観は変えられないかもしれないけれど、それが外部に翻弄され続ける(かつ被害者であり続ける)自分なのか、翻弄されていたとしても主体的に選択肢を取る自分なのかは、大きく異なる。

そして、主体性から生じた行動には責任が生じる。

それは以前書いた主語をつけて話をすることにも繋がってくる。

成熟した人たちを増やそう

僕たちに必要なのは成熟だ。

それはある種の自己満足と言えるかもしれない。

でも、そういう人が増えた時、僕たちの社会はもう少しだけ生きやすくなっているような気もしている。

それではまた。

いい仕事をしましょう。

あとがき

主体性の回復。

最近の僕のテーマです。

世の中にはたくさんの情報があります。

それは否応なしに僕らの生活に入り込んできます。

それは避けられない。

それを嘆いていても仕方ない。

僕らにできることは、そのような環境下でどのように行動するか、です。

たくさんのノイズ。

そしてアルゴリズム。

それに駆動されて、感情的になっているたくさんの人たち。

単純な入力からの単純な出力。

まるでプログラムされているかのようなデジタルさ。

AIに近づく人間と、人間に近づくAI。

それを超える為の主体性とは?

いや、「自分の判断」すら外部にコントロールされる世界で、それすら意識されない世界で、主体性なんてものはないのかもしれません。

それでも。

それでも。

引き続き読んで頂けたら幸いです。