きちんと見に行く

UnsplashAmanda Dalbjörnが撮影した写真

評価者と被評価者の乖離

「評価者の劣化」ということを最近考えている。

成果主義やジョブ・ディスクリプションにおいてはどうしたって成果評価が重要となるはずなのに、それを行う人の質の向上が全然見られず、評価者と被評価者の乖離が大きくなっていることに僕は危機感を覚えている。

ここには様々な要因があるだろう。

すぐに改善できるもの、そうでないもの、が混在しているように思える。

ただ、そう言っていても現状は何も変わらない。

改善されない状況を愚痴っていたところで、そのフラストレーションは深まるばかりだ。

では、すぐに改善できることは何なのだろうか?

僕は「見に行く」ことが重要だと思っている。

評価者が定点に留まっているのではなく、能動的に部下の行動・行為を見に行くこと。

それもきちんと見定めること。

それができれば、評価者と被評価者の乖離は(少しは)埋められるのではないか?

今日はそんな話をしてみようと考えている。

それでは始めていこう。

評価は待ち構えて行うもの?

「評価というのは向こうから来るもの」

「そこに留まって行うもの」

そのように考えている人(というか考えてすらおらず、無意識的にそのように捉えている人)が大多数であるという印象を僕は持っている。

評価というのは被評価者が上申するもので、それを受けて評価者は「うむうむ」「どれどれ」というような態度で(待ち構えながら)評価を行うことが旧来からのスタンダードである(と考えられている)ように僕は感じている。

そういう意味では、評価者はそこにずっと留まっている。

評価される対象や事象がこちらに届くのを待っている。

言わば「静的な評価」である。

これを「動的な評価」に変える。

それだけでこの評価環境は大きく変わるような気がしている。

まとめてドン!

この「動的な評価」には、実際に見に行くこともそうであるが、「評価が揺れ動いていく」という意味も内包している。

今までの評価というのは、どちらかというと、決算期の締めなど、節目のタイミングで一括で決めているような印象を僕は持っている。

もちろん、ある期間内の事象が考慮されてないとはまでは言えないけれど、「まとめてドン!」というか、そこで一気に行うのが一般的であるような気がしている。

そして、その評価の開示がなされる(部下が評価を知る)のも、年に数回(下手をすれば1回)である。

となると、大半の期間は自分がどのように評価されているのかわからないまま仕事をしていることになる訳だ。

カジュアルに頻度高く開示してみたら?

また、ここには「忖度」のような弊害が生じる余地が残る。

自分がどのように評価されているかわからないから、上司がこのようなことをしたら喜ぶのではないかという先回りが行われ、組織内では無駄な忖度合戦が行われるようになる。

「これをもう少し開示したら?」というのが僕からの提案である。

そして、その開示の重さももっとカジュアルにしたらいいんじゃない? と僕は考えている。

動的な評価の2つの要素

以上から、僕が考える「動的な評価」というのは、「上司が部下の行動を見に行くこと」「評価を頻度高く開示すること」という2つの要素が含まれることになる。

もちろん、評価を頻度高く開示することは、部下の行動を近視眼的にしてしまう恐れがある。

中長期的な目線に立った動きよりも、わかりやすく短期的に評価が上がるような行動をすることにインセンティブが働く可能性がある。

それを抑制する為に、上司が部下の行動を見に行くことが重要なのだ。

仮説・実践・検証のプロセスを部下と同じように体感する

どのようなことを考え、どのような行動をし、どのような結果となったのか?

これは「仮説・実践・検証」のプロセスとも言える。

これを部下と同じように体感するよう意識する。

もちろん、まるっきり同じということは起こり得ない。

あくまでも上司が知ることができるのは、その1部に過ぎないだろう。

でも、少なくとも現状よりはもっとよく知ることができるようになるはずだ。

それによって、評価の軸というものは変わっていく。

プロセス評価とKPI向上の向上

これは「プロセス評価」の捉え方の刷新と言えなくもない。

僕たちはどうも「プロセス評価」というと「KPIの向上」という観点で捉えがちであるが、本当に大事なプロセスというのは時にKPIに現れないものでもある。

そして、もっと言えば、KPIの向上、コスパ良くKPIを上げようとする行動というのは、もしかしたら評価に値しないものなのかもしれないということを考えながら評価する必要すらあると僕は考えている。

ホンモノとニセモノの見極め

上司が部下の行動をきちんと見ていないことによって、部下はわかりやすく評価されるものだけをやろうとする。

その現われの1つがKPI至上主義である。

でも、そこにはホンモノとニセモノが混ざっている。

それを僕たちマネージャーは見極めなければならない。

その為には「見に行く」ことが必要なのだ。

対話でしか見に行くことは実現できない

では、見に行くとはどうやったら実現できるのか?

それは対話である。

というか、それしかない。

行動の歪みを生まない為に

普段の部下の行動を見ながら、頻度高い対話によってフィールドバックを行っていく。

そこには評価の要素も含まれている。

そういう意味では、「動的な評価」というのは日々の積み重ねの継続と、それらをきちんと形に残しておくこと、と言えるのかもしれない。

また、大事なことは上司が部下の行動をきちんと見ているという牽制を部下に対して行うことである。

彼(彼女)らの行動が歪まないように、日々の仕事を適切に評価し続けていく。

そうすれば、見えないところで行われる部下の行動の質も自然と向上していくことだろう。

それではまた。

いい仕事をしましょう。

あとがき

歪んだ行動。

でも本人は意識していない状態。

それが成果主義やジョブ・ディスクリプションによって昂進されているように感じています。

そしてそれは評価者がきちんと評価できないことが関係しているのではないか?

そんなことを僕は考えています。

たぶん僕たちは舐められている。

それを凌駕する為に、きちんと部下の行動を見に行きましょう。