「頑張り方」を変えよう
レバレッジをかけるのがマネジメントの仕事
「課長は暇そうでいい」
これが僕のブログの代名詞とも言える言葉である。
そうなのだ。
僕は課長は暇そうでいいと考えている。
というのも、課長というのは(というかマネジメントというのは)、レバレッジをかける仕事だと考えているからである。
そして、「このレバレッジをかける」というのは、「時間×○○」という比例関係を超える等比級数的な仕事をするべきである、ということを意味している。
もちろん、一生懸命働くことは大事である。
ただ、一生懸命になり過ぎると、周りが見えなくなり、長期的な視点も失われていく。
だから、「頑張り方」は見直した方がいい、僕はそう考えている。
プレイヤー時代のクセが抜けないマネージャーはとても多い。
「頑張れば頑張るほど報われるはずだ」
それは1つの理想ではあるけれど、行き過ぎると美学(やその先の耽美主義)に堕してしまう。
そういう意味で、「頑張り方を変えてみたらいいのでは?」と思ったので、今日はそのことについて書いていこうと思っている。
それでは始めていこう。
全然向上しない生産性
生産性の向上。
日本社会でずいぶん昔から言われており、現在もなお改善の兆しが見えない問題の1つである。
今日の話はある意味では、この生産性の向上を企図していると言えなくもない。
そうなのである。
僕はマネジメントの変革によって、日本社会の生産性向上を実現できるのではないかと考えている。
これは逆に言えば、日本社会の生産性向上を阻害しているもの(の1つ)は、マネジメントなのではないか、ということにもなる。
美学・美学・美学
僕は社会人になってから、「楽に稼ぐ」ことに異常なくらいアレルギー反応を示す人たちにたくさん出会ってきた。
「楽をしてはいけない」というのは確かに日本人的な美しさがそこにはあると思う。
「汗水たらして働く」
そのような労働の美学のようなものは僕だって理解できる。
でも、だからと言って、生産性を無視してはいけないのではないか、とも思うのである。
一生懸命働く=長時間働く=頑張っている?
「一生懸命働く」という言葉は、どうしてか「長時間働く」という言葉とイコールにされがちで、長く働けば働くほど「アイツは頑張っている」という評価を得られやすいのが日本社会である(そこには「残業代」というインセンティブもある)。
しかしながら、労働時間が長くなればなるほど、生産性は低下していく。
同じような強度で働くことは不可能であるし、それを目指している人も多くはないから。
となると、職場には「労働時間が長い人」がたくさん出現することになる。
頑張ってるのに全然ダメな日本
これは客観的に見れば、「頑張っている」ように見えるだろう。
たくさんの人が、長時間働いているのだから、頑張っている以外ナニモノでもないはずだ。
でも、生産性は低いし、職場はギスギスしているし、皆疲れている。
誰得なん?
僕はそう思ってしまうのである。
頭でレバレッジをかける
僕はプレイヤー時代もそうであるけれど、マネージャーになってからも「どうやったら楽に稼げるか」ということを考えてきた。
これは「サボっている」ということを意味しない。
「体を使うのではなく、頭を使う」そういうイメージである。
ルールの範囲内で、でもルールの解釈を変えるというか、考え方自体を変えてしまうことで仕事にレバレッジをかけていく、それが僕が考える「楽に稼ぐ」という意味である。
倒錯した感情
これは「課長は暇そうでいい」という言葉にも表れている。
どうにも「プレイングマネージャーこそが至高!」みたいな人がたくさんいて、僕はそれに本当に辟易しているのだけれど、マネージャーの仕事はプレイすることではなく、マネージすることであるということは、何度言っても言い過ぎではないように思っている。
もちろん、「プレイせざるを得ない」という環境やそこにある圧力のようなものは理解できる(僕だってたくさん経験してきた)。
でも、プレイングマネージャーの中には、「そうやって働いているオレカッコいい!」というような倒錯した感情があるようにも見えるのだ。
「一生懸命働く=免責」ではないぜ?
厳しい言い方かもしれないけれど、僕はそれを「逃げ」だと捉えている。
考えることを放棄して、仕組みを構築することを忌避して、「一生懸命働いていること」で免責されようとしている、そう見えなくもないのである。
そして、そのようなマネージャーがたくさんいることで、日本社会全体の生産性が落ちているのではないか、そんなことまで思ってしまうのである。
働かせ方が間違っている? そりゃそう!
繰り返すが、そこにある構造的な要因は理解できる。
そもそもの「働かせ方」が間違っている、それは確かにそうだろう。
でも、仮にそうだとしても、何もしないのだろうか?
その流れに少しでも抗ってみたらどうだろうか?
わかるよ。でもさ?
僕は被害者面の人が苦手である。
もちろん、そこにある被害の実態については共感もするし、同情もする。
ただ、被害者面の人は、そこでうなだれて、何もしないことが多いようにも感じている。
「努力してもダメだった」
「わかるよ。でも旗を降ろすのかい?」
僕が思うのはそういうことである。
それではまた。
いい仕事をしましょう。
あとがき
「僕は共犯者である」
そんな共犯者的思考を僕は持っています。
「この世界がこの様であるのには、僕にも責任がある」
「だから批判だけするのはお門違いじゃない?」
僕はそんな風に考えて生きています。
「絶対的他者になる」というのは生きている限り不可能で、それは組織内での問題に対しても同様です。
だから被害者面でずっと俯いていてはいけない。
「何か」をしなければならない。
たとえそれが何にもならなくても。
そのような「志向性」を持つこと。
手の届く範囲で、出来る限りのことをやっていきましょう。