大事なのは行動だ

UnsplashMick Hauptが撮影した写真

凄いはずの成果とクソみたいな現在地

「口が上手い人が増えている」

それを日々感じている。

「成果主義」というのは、どうやら「成果アピール主義」になってしまったようで、如何にそれが凄いものであるかを各々が競い合うことがその言葉の定義となった(でも内実は伴っていない)、そんなことを思ってしまう。

そうなのだ。

本当に彼(彼女)らが言うような成果が上がっているとするなら、当社の市場におけるプレゼンスは物凄く上がっているはずなのだけれど、その兆しすら見えないのはなぜなのだろうか、といつも僕は疑問に思う。

また、それを受ける人たちも、なぜそのことに気付かないのだろうか?

いや、たぶん皆気づいてはいるのだ。

でも、見たくないから、見て見ぬふりをしている。

それによって、暗部が暴かれ、その被害が自分にも及んでくる可能性があるから。

そういうことに僕は疲れてしまっている。

もちろん、社会で生きていく上でアピールすることは必要だ。

それも一定程度以上、アピールすることだって別におかしなことではない。

ただ、それと現実があまりにも乖離しているとするなら、そこに一定のメスを入れる必要はあるのではないか(特に評価する側がきちんと見定めなければならないのではないか)?

大事なのは行動である。

それによって何を為すか(何を為したか)である。

今日はそんな話をしていくつもりだ。

それでは始めていこう。

形式主義の拡大再生産

「形式主義というのは揶揄される対象であったはずなのに、いつの間にかそれが普遍的となり、誰もそれを馬鹿にしなくなった」

そんなことを感じている。

仕事というのは、「形式要件を整えること」になったようで、それがどのような意味を持つのかであるとか、どのような影響を及ぼすのかといったことは考量されなくなったようである。

それよりも「体裁が整っていること」が重要視されるようになった。

結果、社会はハリボテ化するようになった。

実際にどのくらいの意味を持つのかということは脇に置かれ、「綺麗にやっておくこと」だけが重要視されるというか。

依頼する側も、依頼される側も、それを暗黙の了解としながらコトを進めようとしているというか。

「王様は裸だ!」というのは、日本社会ではどうやらタブーであるようで、そのような人は周辺に追いやられ、気が付けばいつの間にかいなくなっている。

形式主義の再生産(もしくは拡大再生産)。

結果、口の上手い人だけが残ることになった。

ソクラテスとソフィスト

これは僕にソクラテスとソフィストを想起させる。

そういう意味では、人間というのは昔からずっと変わらないものなのかもしれない。

いつの世も、真理を追い求める者は弾劾されるのだ(ガリレオ然り)。

でも、たとえそうだとしても、諦めてはいけないのだと僕は思っている。

表出ようぜ?

大事なのは行動である。

みな口ではとても良いことを言うけれど、「じゃあそれお前できんの?」と僕は思ってしまう。

「やってみせろよ」と。

とても野蛮な考え方ではあるけれど、こういう場面に出くわすたびに、僕は「表出ようか」ということを思わず口に出しそうになってしまう。

大した実力もないくせに、口だけが達者な奴が何を偉そうに。

もちろん実際には羊のように大人しくしているのだけれど、そういうことがあまりにも当たり前になり過ぎていて、本当に僕は辟易としてしまっているのだ。

口だけ番長

もちろん、人が集まればそのような人が一定数生まれるということは流石の僕だって承知している。

でも、あまりにも増え過ぎてやしないか?

大事なのは行動である。

それによって何を為すかである。

僕たちは他者を評価する時、言動だけではなくその行動によってもう少し評価すべきなのでは?

僕はそのように思う。

見に行こう

そして、ここには仕事をきちんと「見に行く」姿勢が求められる。

部下(や同僚)がどのような仕事をしているのか、その中身まで踏み込んで見に行く必要があるのだ。

それを面倒だからといって、避けてはいけない。

ましてや、自分に火の粉が降りかかってくるかもしれないと恐れてはいけない。

その本質を見極めること。

そして、それがもし本質的でないと感じるなら、そこで対話を行うこと。

口が上手い者だけを評価するのではなく、具体的な行動が伴っている者も評価すること。

それが必要なのではないか?

評価に「ファジーなもの」を持ち込む

成果主義とは、KPIを装飾することではない。

それを飾り立てることではないのだ。

その意識をもう少し強く持つこと。

そして、それはある種の「ファジーなもの」を評価に持ち込むことに繋がるはずだ。

「行動=KPI」ではない

僕たちはそのような「ファジーなもの」を社会から減らすよう、ここ数年(数十年?)取り組んできた。

わかり易く、公平で、納得的なものを求めてきた。

それ自体は否定しない。

ただ、それが(過剰な)形式主義に繋がっているとしたら、ここら辺でそろそろ修正をすべきなのではないか?

「行動=KPI」だと捉える向きを、もう少し踏み込んで考えるべきなのではないか?

僕はそのように思うのである。

それではまた。

いい仕事をしましょう。

あとがき

資本市場からの圧力。

決算数字を良化させること。

まあとても大事なことです。

でも、それが本質的でないならいつかバレますよね?

連日報道される日本企業の体たらく。

それを見るたびに、内情はどこも似たようなものなのだろうなと思ってしまいます。

ハリボテ化している僕たち。

「その流れをそろそろ変えませんか?」というのが僕からの提案です。

言動だけでなく、行動を評価していきましょう。