火をつけることは可能なのか?

UnsplashCullan Smithが撮影した写真

どうせ過ごすなら

いつの頃からか、冷めた部下が増えたように感じている。

それは昨今よく言われる「静かな退職」的な文脈に近いニュアンスかもしれない。

上昇志向も権力志向もない、それはまだ理解できる。

でも、仕事そのものを楽しもうとしないスタンスというのは僕にはよくわからない。

どうせ人生のかなりの時間を費やすのだ。

それだったらその時間を少しでも有意義なものにしようとは思わないのだろうか?

もちろん、そこにある理不尽さについては理解できる。

それが原因でやる気が削がれる、その気持ちは痛いくらいよくわかる。

でもさ、というのが今日の話である。

それでは始めていこう。

現状維持とコスパ思想

仕事に楽しさを求めることをしない人達。

それがチームの一定数以上存在することが当たり前になった。

ここにあるのは「現状維持」の思想である。

頑張っても頑張らなくても同じであれば、なぜ頑張る必要があるのか?

それは当を得ている。

というか、むしろ頑張らない方がコスパが劇的に向上するなら、なぜ頑張ろうとするのか?

そのような疑問はもっともですらある。

やりがいとやりがい搾取

ただ、僕がこの疑問に対して思うのは、仕事を楽しもうとすることとは方向性が違うのではないか、ということである。

そして、そのような僕の考えに対して、「仕事を楽しんだところで何の意味があるんですか?」という反応が出ることも簡単に予測できる。

「仕事というのは対価を得るために行うものであって、それが楽しいかどうかなんてことは関係ない」

「そこに楽しさを求めようとすることが、結局のところやりがい搾取みたいな話に繋がっていくのでは?」

そのような反論は正しいと僕も思う。

でも、逆にこう問いたいとも思う。

「だとしたら、無表情でその時間をやり過ごすことが最適解なのですか?」と。

わかるが、わかりたくはない

労働とは苦役である。

その苦役によって対価が得られるのである。

だからその労働自体に快を求めるなんてことはちゃんちゃらおかしいことである。

そのような考え方。

わからなくはない。

ただ、つまらないだろうなとは思う。

そして、少なくとも僕はその選択肢は取りたくないと思うのだ。

「みんなで頑張ろう!」ではなく

職場に熱量がなくなってからかなりの時間が経った。

そこにノスタルジーを感じている訳ではない。

というか、「全員一丸となって頑張ろう!」みたいなノリを「熱量」と言いたい訳ではないのだ(むしろ僕はそのような方向性が大嫌いである)。

個々人がそこにある仕事に対して、工夫をしたりすることで、面白がることが大事なのではないか、ということを言いたいだけなのである。

それは誰の為でもなく、自分の為に行われるべきものなのだ。

誰の為でもなく自分の為に

そういう意味では、今日のタイトルである「火をつける」ということは不可能だと言えるのかもしれない。

それは誰かにやらされるものではないから。

自分自身で面白がろうとする必要があるから。

仕事のない人生はつまらなそう

僕がFIREを熱望しながらも、今一つそこに踏み切れないのは、仕事というものがなくなった時に、面白みも人生から失われてしまうのではないか、という恐怖心がそこにあるからである。

いや、できるなら僕だって仕事をしたくはないのだ。

ストレスの少ない環境で、まったりと暮らしていきたいというのが本音ではある。

でも、そこにいる自分を想像した時に、それはそれであまり面白くもなさそうだなとも思ってしまう。

今の仕事はすぐにでも離れたいけれど、また違う形の「仕事」を僕はきっとしてしまうだろうと思うのだ(たとえばこのブログのように何の対価も生まないようなことを)。

お節介かもしれないが…

自分の人生に対する能動性。

それがあるかどうかで、日々の面白さは変わってくるような気がしている。

と言っても、別に誰かに強要しようとする気はさらさらない。

だから、火をつけようという考え方自体がたぶん違うのだ。

でも、お節介かもしれないけれど、「それってつまらなくね?」とは思ってしまうし、実際にそのように言ってしまう。

強く勧誘したい訳ではないけれど、軽いお誘いくらいはしてみたい、それが本当のところである。

被害者面と奪還論

被害者面と奪還論。

それが昨今の潮流ではある。

「自分は虐げられている、その原因はアイツらにある、そいつらが良い思いをしているのは許せない、だから奪い取ろう、それを皆で分け合おう、それこそが正義だ!」

そのような考え方。

わからなくはないし、同情もする。

でも、「あなたは何もしなくていいの?」とは思ってしまう。

この世界がこの状態であることの責任は僕にもある

僕は「共犯者論者」であって、この世界が今のような状態にあることの責任の一端は僕にもある、という考え方を持って生きている。

もちろん、個人にできることには限界があるし、責任を全て自分で取る必要はない。

ただ、何らかの呵責というか、瑕疵というか、そういうものが自分にもあることは忘れてはいけないように思う。

自分だけが完全無罪であることはありえないのだ。

そして、仕事に対する冷めた考え方についても、同情こそすれ、何だかなとは思ってしまう。

まあ自由にすればいいけれど

確かに個人の自由ではある。

それぞれの価値観の元に僕たちは生きるべきではある。

でもさ、というのが僕の思うことである。

何だかまとまりのない話になった。

それではまた。

いい仕事をしましょう。

あとがき

面白さを求めることとその優位性。

物事を面白がれるかどうかで、そこでの「伸び」は大きく変わります。

その対象は別に仕事でなくても構いません。

でも、仕事がその対象であってもいいのではないかと僕は思っています。

また、「伸び」が誰かの為でなく、自分の為に行われることが大事なのではないかと僕は考えています。

主体的に人生を生きていきましょう。