アリバイ作りはやめよう
バレないように責任を回避する
意図的かそうでないかはわからないが、昨今においては「できるだけ自分に火の粉がかからないようにする」傾向があるような気がしている。
もう少し言葉を悪くすれば、「責任逃れ」「責任回避」を如何にわからないように、悟られないようにするかという技術を競っているような気さえする。
これは「アリバイ作り」という形で職場に現れる。
ある事象が生じたときに、その場に自分がいなかったこと、その件に自分は関与していないこと、それを証明するための書類作りが頻繁に行われるようになる。
それが難しい場合には、できるだけ複数の人間に責任が及ぶような形(自分の責任がその人数分軽くなる形)で証跡を残そうとする。
こうして等比級数的に無駄な書類が増えていく。
官僚主義が蔓延する。
リスクは無限、リターンは有限
これは1つには、「リスクとリターンが合っていない」ということがその原因にある。
責任を負う覚悟を決めて事業を成功させたとしても、それは自分1人の手柄とはならない。
何の貢献もしていない人が、素知らぬ顔で「自分もその関係者です」といって加わってきて、その分リターンが薄まってしまう。
薄まるだけならまだマシで、「そもそもは自分が発案者です」みたいなことを平気で言い出す輩もいたりして、手柄を横取りされたりする。
一方で、失敗した場合には全責任を負わされる方向に追いやられていく。
その失敗の責任の所在が本当に自分にあるなら仕方ないことだが、そうでないものも全部引っ付けられて、押し付けられる。
「今がチャンス」とでも言うかのように、過去の話であるとか、全然関係ないものとか、そういったもの全てを背負うことになる。
その意味において、「リスクを取る」という行為は「割に合わない」。
リスクは無限大で、リターンの上限は見えている(そしてそれはとても低い)からだ。
こんな金融商品(オプション)を買う投資家はいないだろう。
小役人ばかりのマネージャー陣
同じ理由で、職場においてもこのような(投資)行動が蔓延する。
結果として、どんどんと小さく纏まる方向に組織が動いていく。
できるだけ自分の仕事の領域を小さくして、そこに責任が及ばないように、全員が行動し出す。
1人1人は合理的な行動であるが、全体としてはどんどんと悪い方向に動いていく。
ゲーム理論で言う「囚人のジレンマ」のような状態になっていく。
合成の誤謬が生じていく。
特に管理職にはこういう「小役人」みたいな人が多い。
手柄は全て自分のもの、責任は全て部下のもの、というように動いている人が本当に多い。
そして「そんなつもりはありません」みたいな善人面をするから余計にたちが悪い。
素晴らしき世界
これは社会的風潮も関係しているのだろう。
日本社会は落伍者に本当に厳しい社会だ。
弱みを見せると、寄ってたかってなぶり殺しにする。
イジメや、集団リンチのようなことが公然と行われる。
そしてそれが同調圧力によって増幅されていく。
村八分みたいなことを平気でやったりする。
たぶん僕たちはそういう民族性を持っているのだろう。
キャッチアップ型の経済状況であればその同質性というものは大きな強みになるけれど、そうでない場合には逆に大きな弱点になってしまう。
枠からはみ出ると袋叩きにあう環境において、誰がそこから飛び出そうとするだろうか。
次の標的になるのは自分かもしれないという恐怖におびえながら、せっせとアリバイ作りに勤しむ。
なんて生産的な世界なのだろう。
みんながみんな顔色を伺って、やりたいこともやりたいと言えず、窮屈な箱の中に閉じこもっている。
その中で重箱の隅をつつくように、お互いの粗探しをエンドレスに続けていく。
なんて素晴らしい世界なのだろう。
ストレンジ・マネジメント
僕はこういう社会環境の中で、社内環境の中で、おかしなことをやり続けている。
ピエロのように赤い鼻をつけて踊り続けている。
みんな僕のことを奇異な目で眺め続けている。
「失敗しろ」という大合唱が聞こえてくる。
でも不思議なことに僕は潰されないで何とか生き残っている。
目立ちたい訳でもなく、ヒーローを気取りたい訳でもない。
ただやりたいことをやりたいようにやっていたら、浮いてしまうだけだ。
そんなストレンジャーがマネージャーを名乗って今日も仕事をしている。
アリバイ作りにせっせと励む他のマネージャー達を横目に、僕はおかしなダンスを踊り続けている。
責任を押し付けられないように、弱みを見せないように、結果を出し続けている。
孤独な戦いだ。
でも僕にはチームがいる。
チームのメンバーたちがそのおかしな戦いを支持してくれている。
きっといつか時代は変わっていくのだろう。
その時までもう少し頑張るつもりだ。
それではまた。
いい仕事をしましょう。
あとがき
小物たちがアリバイ作りに勤しむのは、それで騙されてしまう人が(たくさん)いるからです。
それが効果的であるからです。
そういう意味において、僕たちは評価の在り方についてもそろそろ考え直さなくてはならない時期に来ているような気がしています。
評価者に能力がない場合、自分の能力のなさを悟られずに評価を行うためには、目に見える「失敗」を列挙していくことがイージーです。
なぜなら、自分の能力を超えた才能を評価するためには、その評価者にも才能がいるからです。
こうして組織は縮小再生産されていく。
まだ言葉に上手くできないのですが、「よくわからないけれど、すごい」というような評価がある程度できる土壌がないといけないのかな、と感じています。
それができないのであれば、優秀なAIと働いた方がマシだ、と最近本気で思っています。
疲れているのかもしれません。
次回はもう少し明るい話を書きたいと思います。