評価者の質

社内で優秀だとされている人は本当に優秀なのだろうか?

最初から爆弾をぶっこんでみたけれど、もう少し丁寧に話をするのであれば、個人の実務能力と、評価能力というのは比例するのだろうか、そしてもしそれが比例しないのであれば、優秀だとされている人は本当に優秀なのだろうか、という形に分解される。

実務能力と評価能力は比例しない

前段について。

結論から言うと、これは比例しないと思う。

ある人が管理職(評価者)に昇格する場合、実務能力の優秀さを評価されてなる場合が殆どであると思う。

そして管理者を経験しながら、その管理者としての適性をテストされていく。

管理者としての適性の1つとして評価能力というものがある。

しかしながら、現状においてこれはあまり重要視されていないように感じる。

というか、評価能力を評価するというのは、なかなか難しい。

人間はどこで成長を遂げるのか、その射程やタイミングがわからないし、それを過去の評価者が適切に見抜いていたか、というのは事後的にはあまり問題にならないことが多いからだ。

そして評価者には当然ながら様々なバイアスがかかっている。

それは人間である以上避けられないものだ。

何とか「客観性」を保とうと努力はするのだけれど、結果としてそれは「主観性」に塗れたものになる。

それについては良いとか悪いとかいう範疇のものではないと思う。

そういうものだ、としか言いようがない。

同じような人物の再生産

でもそこから出てくるものは、「自分と似た匂いのする人を評価する」という凡庸な形に落ち着く。

これが組織の様々な場所で繰り返されていく。

こうして、同じような思考様式・行動様式を持った人たちが管理者(評価者)となる。

同じような評価者が再生産される

これが後者の議論に繋がっていく。

優秀=社内文化適合的

ここで選ばれた人の多くは、自分の評価者と似ていた(馬が合った)という要因がその評価内容の大部分を占めることになる。

もちろん、評価者自身はそんなことを言わない。

それはあくまでも客観的かつ厳正な評価の結果だ、と言うだろう。

でも僕から言わせれば、それはハズレのない選考方法でしかない、失点の少ない評価方法でしかない、ものだ。

尖った人間よりも丸まった人間を評価する方が、自分の評価者としての能力のなさを曝け出す可能性を下げられるからだ。

誰だって自分の無能性を外に出したくはない。

だから凡庸な評価を行う。

当たり障りのない結論を行う。

結果として社内で優秀だとされている人は、社内的に優秀な人(その会社では評価されている、社内文化に適合的な人物)となる。

慣性の法則に従って組織は同質化していく

繰り返すが、これは良いとか悪いとかいう話ではない。

組織というのはそういうものなのだ。

慣性の法則に従うように、そのままにしておけば、自然とそのような形になる。

だからこそ、意図的に雑味を入れるような工夫をしなければならない。

その輪を乱すような要素を入れなくてはならない。

(ここには一流の人にしか一流の人は評価できない、二流の人は三流を評価する、その結果組織は劣化していく、というような議論もあるのだけれど、それはまたどこかで話す)

様々な変化に適応するためには多様な生物種が必要だ

生物の進化の歴史に例えるまでもなく、単一の(もしくは単一に近い)生物種層は外界の変化に弱い。

暑さに強いもの、弱いもの、寒さに強いもの、弱いもの、がそれぞれその時々の気候に合わせて、隆盛を極めたり、滅びていったりする。

幾万世代を経てきたとしても、隕石が衝突したり、氷河期に突入したり、まさに天変地異が生じた場合には、その進化の歴史は消滅してしまうことになる。

でもその中においても生き残る生物がいる。

その環境に適応できる種がいる。

僕は組織もこのような形であるべきだと思う。

もちろんダイバーシティだとか多様性だとか、そういう「お題目的」な要素としてもそれは推進されるべきなのだけれど、僕が考えているのはもう少し実利的なものだ。

昭和時代のように同質的な価値観が大勢であった社会情勢下では、同質性というのはある種のストロングポイントであった。

でも現代は違う。

変化のスピードは速く、良かれとされていたものであっても次の瞬間には陳腐化している。

その中で生き残る為には色々なタイプの人間がいた方がいい。

確かに色々なタイプの人間を纏めるのは骨が折れる

でもそれこそがマネジメントの本来の目的だ、と僕は思う。

同質な人間達を同一方向に向かせるのはマネジメントとは言わない

昭和的同質的サラリーマンを同じ方向に向かせることしかできない人をマネージャーと言うのはもうやめた方が良い。

そのような人たちが選ぶ人を優秀と呼ぶのはもうやめた方が良い。

僕はそう考えている。

動物園のような多種多様な人たちをマネジメントしながら、その長所も短所も、酸いも甘いも味わいながら、チームを向上させられる人、その実績がある人を評価者とすべきだ。

たぶんそれができるマネージャーというのは多種多様だろう。

その人たちがまた次の雑多な人たちを評価していく。

みんながみんな勝手なことを言いながらも、チームとして、ある種の疑似的な一つの人格として、動的に動いていく。

それができる人をマネージャーと呼ぶべきだと思う。

自分と異なるタイプの人であっても、能力があればそれを上手く活用していく。

そういう人を昇格させていく。

実力主義ベースの人事評価手法

本当の意味でそれが必要になってきているような気がしている。

それではまた。

いい仕事をしましょう。


あとがき

今まで騙し騙しやってきた仕組みの弱点がコロナウイルスによって露わになったことによって、日本企業の多くはいよいよ背に腹は代えられない状況になってきているように思います。

なりふり構わず生き残る為に使えるものは使う、というある種乱世の時代になってきたようです。

こういう時代においては、社内文化に適合した人物よりも、その周辺部に追いやられていた人の方が生き残る可能性が高い、そのように僕は考えています。

社内政治に長けた人は平時には強いのですが、こういう激動の時代にはその実力のなさが露呈してしまいます。

部下は部下で自分の身を守ることに精一杯なので、沈みそうな船で見当違いなことばかりしている(してきた)人の言うことなんて聞くはずもありません。

組織との距離感を上手に測りながら、何とか生き残っていきたいものです。

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