幼児性を尊ぶ時代

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懐古主義?

「大人」が社会からいなくなった。

そんな風に思いながら僕は仕事をしている。

ここで言う「大人」というのは、責任を引き受けたり、ケツを拭いたり、懐が深かったり、どっしりと構えていたり、泰然としていたり、鷹揚に構えていたり、つまり、僕がついていきたくなるような種類の人のことだ。

それが社会から消えた。

いや、僕の近くから消えただけで、どこかにはまだ存在しているのかもしれない。

そうであって欲しい。

そしてそうであるのであれば、今回の話は無用になるはずだ。

それを願いながら僕は文章を書いていく。

杞憂?

そうであって欲しい。

(以下は、不要な文章なのだ。きっと)

無垢であることは良いことではない

「大人」が消えた街に現れたのが「子供」だ。

いや、「幼児」という方が適切だ。

彼らは無垢な振りをする。

純粋であることをデフォルトとする。

穢れがないこと、それを善とする。

そんな人たちが街を歩いている。

跋扈している。

できるだけ責任を取らないように、リスクが生じないように、コスパが上がるように、彼らは仕事をしていく。

危険な事態に巻き込まれそうになったら、自分は何も知らなかった、というように振舞う。

まるで知らなければ責任も生じないかのように。

無垢戦略

自己責任論。

リスクマネジメント。

まあなんと名付けてもいい。

君の好きなようにすればいい。

とにかく僕はこういう人達にうんざりしている。

王国と王様

悪いのは自分ではなく他者であること。

外部にあるものが原因であって、自分はその被害者であること。

そしてその外部にあるものは、自分の力ではどうしようもないということを主張すること。

なぜなら、自分は無力で無知なか弱い人間であるから。

それになすすべなく振り回されるだけの卑小な人間であるから。

そう言えば、免罪されるから。

その責任から逃れられるから。

誰かが靴下を履かせてくれて、洋服を着せてくれて、暖かい部屋を用意してくれる。

その中で、王様のように振舞う

それを邪魔するものは悪だ。

王国へ侵略してくる悪者だ。

善悪二元論。

正しいのはいつも自分だ。

気に食わなければ、泣き叫べべばいい。

顔を真っ赤にして、地団太を踏んでいればいい。

どこかから大人が現れて、助けてくれるから。

慰めてくれるから。

頭を撫でてくれるから。

涙を拭いてくれるから。

あちこちで鳴き声が聞こえてくる。

みんなそんな風に振舞っている。

自分の欲求が満たされることを最優先とする人達。

その報われなさを声高に叫ぶ人達。

素晴らしき令和。

素晴らしき日本社会。

自分の首を絞め続ける僕たち

僕はマネジメントの端くれとして、このような風潮に危機感を抱いている。

個人個人はきっとそれが有効な戦略だと思っているのだろうし、実際にそうなのだろうけれど、それが社会単位になると話は変わってくる。

合成の誤謬

僕たちは自分達で自分達の首を絞め続けている。

自分達で自分達の社会を生きづらいものにしている。

そしていつしか窒息する

そんな風に思えてならない。

素晴らしき令和。素晴らしき日本社会。

僕たちは成熟することを放棄してしまった。

成熟すると責任を取らなくてはいけなくなるから。

面倒くさいことが襲い掛かってくるから。

やりたくないこともやらなくてはいけなくなるから。

真面目な奴が割を食ったり、正直者が馬鹿を見るのをたくさん見てきたから。

コスパの良い生き方。

それこそが最善だ。

それを職場にも応用しよう。

できるだけ少ない労力で、できるだけ多いものを獲得しよう。

最も効果的に賃金を得る方法を追求しよう。

自分が心地よいものだけを配置して、それ以外のものは排除しよう。

子供たちの楽園を作ろう。

素晴らしき令和。

素晴らしき日本社会。

拍手。拍手。拍手。

ちょっとずつ責任を負う

最後に少しだけ真面目な話を。

僕は共同性みたいなものを取り戻さなくてはいけないのではないかと思っている。

それもウェットじゃない21世紀仕様のやつを。

そしてそれは仕事においても可能だと思っている。

その為には僕たちは少しずつ責任を負うことが必要だ。

責任を負うと言っても大層なことじゃない。

ある事象に対して、それはもしかしたら自分にも責任があるんじゃないか、と思うこと。

誰かのせいではなくて、自分のせいであるかもしれない、と疑うこと。

その片棒を担いでいるかもしれない、と感じること。

そしてそれは自分の力で変えられる可能性がある、と信じること。

僕たちがそういうちょっとしたものを差し出すことで、社会は少しだけ生きやすくなるのではないか。

僕はそんな風に考えている。

クソみたいな時代におけるクソみたいな仕事を変える

僕たちが少しだけ大人になることで、仕事というものは少しだけ面白くなるし、もう少し青臭いことを言うと、そこに意味みたいなものが生まれるはずだ。

これだけ意味が失われた時代において、意味を無理やりにでも生じさせること

それができるはずだ。

クソみたいな時代におけるクソみたいな仕事を変えられるはずだ。

そんなものは幻想だ。

それはわかっている。

でも、たとえそれが幻想に過ぎないとしても、僕たちにはそれが必要なのだ。

「大人」になろう。

「大人」がいなくなった街で、僕たちからそれを再生させよう。

それではまた。

いい仕事をしましょう。


あとがき

消費者的態度というか、モンスタークレーマーというか、奪還論というか、自分は相対的な弱者であって、相応しい扱いを受けていない、だからそれを受けるべきだ、というような考え方はとてもコスパの良い戦略です。

自分には知識も社会的地位も資産もない。

でも「あいつら」にはそれがあって、良い思いをしている。それは許せない。

だから「あいつら」を引きずり降ろそう(自分が上昇するのではなく)。

僕らはそれぞれがそんな風に考えて、僕たちの社会をとても生きづらいものにしてしまっています。

ルサンチマン的な感情を否定するつもりはありません(もちろん僕だってそういう思いはあります)が、みんながみんなそれを露出させてしまうのはちょっとどうなのかな、と僕は思っています。

個人としては最適な戦略であっても、それが合わさると最適な戦略ではなくなってしまう。

そしてその結果生まれたのが「今の世の中」です。

それを自覚すること、その責任を少しずつ負うこと、が僕たちには必要で、それによって少しは社会は生きやすくなるのではないか、そんな風に僕は考えています。

できることからやっていきましょう。