心理的柔軟性の重要性

マネージャーにカリスマ性は必要なのか?

「優秀なマネージャー」というものを想像する時に、カリスマ性が必要だ、と考える人は多い。

してカリスマ性というのは、「確固たる自己」みたいなものから生じる、という概念を持つ人も多い。

裏を返せば、芯のない人物というのは「優秀なマネージャー」というイメージにはそぐわない、ということにもなるだろう。

でも、最近はその芯のなさこそが、マネジメントの柔軟性を担保するのではないか、と僕は考えている。

今日はそんな話をしてみる。

理想のリーダー像

理想のリーダー像を想像してみて欲しい。

確固たるビジョンとか、目指すべき理想像の具現化とか、そういうものをイメージするのではないだろうか?

それを否定するつもりはないし、もちろん多少は必要ではあるのだけれど、そこにあまりにも囚われてしまうと部下からの信認を得るのは難しくなってしまう、そんな風に最近は考えている。

リーダーは「リードする人」なのか?

リーダー(leader)というのは、「リードする人」という言葉の通りで、皆を導くような響きがそこにはある。

チームの先頭に立って、メンバーを鼓舞していくようなイメージ。

でも、その理想像と、メンバーの現在地に大きな乖離があるとしたら?

リーダーはどのようにチームをリードするのだろうか?

ゴールから逆算 or ゴールへ近づく?

以前にも書いたことではあるけれど、ここには「ゴールから逆算する概念」と、「ゴールに近づいていく概念」の違いがある。

どちらが正しいとか間違っているとかではなくて、現在のチームのレベルや立ち位置によってそれを使い分けることが重要である、と僕は考えている。

そして、明らかに現在のチームが理想像と離れている場合には、軌道修正を行い、まずできることからやる、という割り切りが必要となる。

人によってはそれを妥協と呼ぶのだろう。

でも僕はそれを柔軟であると呼びたいと思う。

凝り固まっていない柔軟な心があること。

その時々によってチームの方向性が変わっていくこと。

それはネガティブなことではない、そんな風に思っている。

実行までできる人は本当に少ない

未来に集中するのと現在に集中するのとの違いがここにはあるのだと思う。

現在に集中する為には、現在の状況をよく知らなければならない。

何を当たり前のことを、と思う人もいるかもしれないけれど、これは案外できていないものなのだ。

もう少し言うと、その現在の状況を知りながら、実際にどのような手が打てるのか、ということまで考えられる人は本当に少ない。

理想を言うことは簡単だ。

「べき論」を言うことは簡単だ。

ただ、今すべきことを言語化して、実際に部下に説いて、実行に移す、という一連の作業ができる人は本当に少ない。

そして、なぜそれができる人が少ないのか、ということを考えた時に、僕が行き着いたのが「心理的柔軟性」がない、ということなのだ。

頭の良い人と心理的に柔軟な人

「頭の良い人」は簡単にゴールが思いつく。

そしてゴールまで最短距離で進もうとする。

それを阻むものは障害物である、というような理路を辿る傾向がある。

それに対して心理的に柔軟な人というのは、ゴールという特定の概念を持たない。

持たない、というと少し言葉が強いかもしれないので、ゴールイメージは持ってはいるけれど、それはそれとして脇に置いておく、その空いた空間に現在の状況を入れ込む、そんな感じかもしれない。

フラットな状態で現実を見つめること。

バイアスをできるだけ除いて、ありのままを直視すること。

そこからできることを考えること。

それが心理的柔軟性である。

異物すら面白がること

いま僕は、障害物すらも包摂する、みたいなイメージを持ってマネジメントを行っている。

ゴールイメージを持つ人、「リーダー」は、障害物に対して負のイメージを持つのだろうけれど、僕はそれをフラットな状態で受け止めることができる。

異物すら面白がれる。

ここが僕の強みなのではないか、最近そう思っている。

西洋と東洋

理想と違うもの、というのは確かに心地良いものではない。

ただ、それを除去するのではなく、それと共に進む、それすらも受容する、というところまで考えることができれば、チームというのは多様になっていく。

これは東洋的な考え方なのかもしれない。

西洋的なものが最短距離を駆け抜けることであるとするなら、機械論的に割り切ることであるとするなら、東洋的なものは全てを包摂しながら進んでいく、そんな感じを僕は持って日々仕事をしている。

ごった煮を楽しむマネジメント

物事には様々な側面がある。

チームには様々な人がいる。

それは光の当て方によって、陰にも陽にもなる

正しさよりも、面白さを僕は重視して仕事をしていきたい。

一見負の側面だと思われるものの中にこそ、面白さの種があったりするものだ。

それを外科的に取り除くのが西洋思想だとするのなら、僕はそれすらも巻き込んで取り込んで進んでいきたいと考えている。

整然としていないこと。

雑然としていること。

ごった煮みたいな感じ。

ポリコレとかLGBTとか、そういう西洋的な物差しではなくて、「わざわざ声高に言わなくたって、それぞれの人が違うのなんて当たり前じゃない?」という東洋的混交物を所与として僕は仕事をしていくつもりだ。

ゼロベース。

からっぽ。

正解を求めないこと。

それではまた。

いい仕事をしましょう。


あとがき

「柔と剛」で言うと、マネジメントには「剛」のイメージが強いような気がしています。

そして、柔軟であるという言葉は、マネジメントにおいては「軟弱」「優柔不断」みたいな響きを帯びているような気もしています。

でも僕がマネジメントをやっていて思うのは、必ずしもそうではない、ということです。

柔よく剛を制す、みたいな、合気道、みたいな、「あ、そう来たのね。じゃあ、こうします」的な、余計な力が入っていないことが凄く重要であるし、それができる人はびっくりするくらい少ない。

理想は大事ですが、実務も大事です。

平らな地平に立って、できることからやっていきましょう。