Z世代との対話
Z世代とミレニアム世代
1990年代後半から2000年代前半生まれの世代は「Z世代」と呼ばれているようだ(明確な定義はまだないようではあるが)。
これを仮に、1996年から2004年生まれと解釈すると、2021年現在17歳~25歳がこの世代となる。
もう少しざっくり言うと、あなたの会社の「若手」と呼ばれる層や、新入社員というのはこの世代に含まれることになるわけだ。
ミレニアム世代(1981年~1996年生まれ)に含まれる僕からしても、この世代に対する感覚のギャップはある。
より上の世代であれば、その乖離はもっと大きくなるだろう。
今日はそんなZ世代との対話についての話だ。
「効率性」「意味」「無常観」「デジタル」
新人教育に手を焼いているマネージャーは多いと思う。
営業経験が長い僕からしても、Z世代と話をする時にはちょっと違うアプローチを取ることが多いし、その琴線に触れる為の方向性はそれまでの世代とは違うような気がしている。
大きな概念として、「効率性」「意味」「無常観」「デジタル」みたいなものを感じる。
彼ら(彼女ら)は、効率的に仕事を行いたいし、意味のない仕事はやりたくないし、会社や社会が現状のまま永続するとは考えていない。
刹那的、というとやや言葉が強いかもしれないけれど、「今」というものに焦点をより強く当てている、そんな気がする。
そして、「報酬」であるとか「昇進」であるとか、そのような旧来のモチベーションの源泉、もっと言うと「金」「酒」「異性」「車」みたいな、昭和感Maxの動機では動こうとしない。
また、相手の感情の機微(起伏)を読み取ったり、行間を読んだり、というような「ザ・日本的センサー」の感度が従来よりも弱い(時々AI感みたいなものを感じる時がある)。
そんな彼ら(彼女ら)達とどのように対話を行えばいいのか?
答え、という程ではないかもしれないけれど、僕なりの(現時点での)結論はこうだ。
「従来以上に丁寧に説明する」
よくわからないと思うので、もう少し詳しく書いていく。
日本的話法は通用しない
彼ら(彼女ら)と対話して僕が気付いたのは、「僕は話を前に進める時に感情面であるとか思考面というものを端折りがちである」ということである。
角度を変えて言うと、日本的な「敢えて言わなくてもわかりますよね」みたいな感じで、その部分を明確に定義しなかったり、抽象的に誤魔化したりして話している、そういう傾向があるということである。
それはある世代以上の人と話すのにはむしろ「適切」なやり方であって、「前段」の部分は共通認識(土台)として僕らにはありますよね、というような話の仕方を取ることが多いのだな、ということに気付いたのだ。
無意識的同一感(同調感)、(自然的)同じ釜の飯を食う仲間、みたいな感じ。
それはZ世代には通用しない。
というか、それは旧来の日本におけるローカルルールであって、現代のグローバルな環境において通用しない、ということなのだと思う。
言わなければわからない
僕たちは他者である。
他者である者同士が話を始める上では、様々な前提が必要となるし、共通言語の構築が必要となる。
それを土台として本論に入っていく。
もう少し具体的に言うと、「なぜ自分がこう思ったのか?」であるとか「この仕事にはどのような意味があるのか?」といったようなことを面倒くさがらずに話をする、ということが大事であるような気がしている。
「言わなくてもわかるでしょ?」ということはない。
「言わなければわからない」のだ。
その構築部分に時間をかけること。
そこがとても大事なような気がしている。
プログラミング(宣言と定義)的な概念
誤解を招きかねない表現にはなってしまうけれど、これはプログラミング的な概念を内包するような気が僕はしている。
もちろん彼らは人間ではあるのだけれど、僕たちのようなおじさん世代よりもコンピュータの反応に対しての親和度が高い(デジタルネイティブ感)、だからこそレスポンスがAIめいている感じがする、それに対応するには、定義を明確にする必要がある、そんなイメージである。
ここがたぶん僕たちの苦手な部分であるから、彼ら(彼女ら)との意思疎通が上手くいかないのだと最近は思っている。
もう少し突っ込んで言うと、彼らは機械的であると同時に、彼らからは人間への渇望みたいなものも感じるのだ。
彼らは「意味のある対話」を欲しがっている。
ただその経験値がない(非常に薄い)。
表現方法も乏しい。
だから僕たちが焦れずにそこを引き受けるしかないのだ。
0と1(デジタルな境界線)
上記したように、彼らは「効率性」や「意味」を重んじる。
でも、だからと言って、その効率性が汎用的な効率性なのか、その意味が本当の意味での意味なのか、ということには意識が向かないように見受けられる。
(あくまでも)彼らの世界観における、彼らの効率性や意味。
それを絶対的なものであると時に彼らは表現しがちであるけれど、そんなことはないのだ。
僕らが前提を跳躍してしまいがちであるのであれば、彼らは結論を跳躍してしまいがちである。
だからこそ僕たちは丁寧に話をする必要があるのだ。
そしてその会話をリードすべきなのは、大人である我々の側なのだろうと思う。
それではまた。
いい仕事をしましょう。
あとがき
Leap(跳躍)、ということを最近よく考えています。
過去からの延長線上には未来はない(特に日本においては)。
だからこそ、私たちは跳躍をしなければならない。
そこで焦点が当たるのがZ世代なのではないか、そんなことを考えています。
僕は彼らの発想の清新さに喝采を送ると同時に、その未熟さに絶望的な気持ちになることがあります。
その間で揺れながら、僕は彼らと仕事をしています。
しがらみのない彼らに日本を変えて欲しいと思いながら、でもその思慮の浅さに愕然としたりしています。
僕たちに必要なのは対話であり、そこに架かる橋です。
粘り強く取り組んでいきましょう。