忖度と粛清

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平時と有事とイエスマンと

今日はとても固いタイトルから話を始めてみる。

ここ数年拡がった忖度という言葉。

それは何も政治の世界だけでなく、僕たちの身の回りにも溢れている現象である。

そして忖度が行われる背景には、粛清という罰を恐れる心理がある。

「余計なことは言わない方がいい」

それが組織で生き残る術である。

権力者は周囲にイエスマンを集めたがる。

裏を返せば、耳障りなことを言う者は排除したい。

かくして、忖度が上手な人が出世し、そうでない人は職場からいなくなっていく。

同質的な組織が生まれる。

同質的な組織は平時には良いけれど、何かコトが起こると、一気に瓦解する。

それを僕たちはずっと繰り返している

今日はそんな話だ。

デジャブ

権力者たちのニュースを見ると、既視感に襲われる。

それは権力者本人がどうこうということよりも、それを是認する空気感みたいなものを僕が働いている職場でも感じるからだ。

余計なことを言うと、必要以上に訴追される。

あることないことまででっち上げられて、隅っこに追いやられる。

それも陰湿に

清浄な世界

僕はたくさんのことを見聞きしてきた。

それが真実なのか嘘なのか、本当のところはわからない。

でもその「空気感」「きっとそのようなことが行われたのだろうな」ということは手に取るようにわかる。

死者は何も語らない。

粛清されたものは存在しなくなる。

そうやって組織は純化されていく。

清浄になっていく。

でもそれは正常とは言えないのだ、きっと。

失敗の本質

先の大戦にどのような形で日本が突っ込んでいったのか、その意思決定はどのように行われたのか、ということを考えていくと、その構造は現在も変わっていないように思われる。

「失敗の本質(中公文庫)」は何も変わっていない。

それが僕を暗澹たる気持ちにさせる。

前例踏襲、声のデカい奴優先主義、非論理主義、非数理主義、データの歪曲と都合の良い解釈、不明確な指示、大局観の欠如、責任者の不存在、などなど、枚挙にいとまがないくらい、僕たちは何も変わっていない(そう、「反省しない」ということもここに加えられるはずだ)。

相変わらずの日常。

相変わらずの低生産性。

拍手。拍手。拍手。

僕たちはそれを黙認し続けている

頭ではおかしいと思っても、手は拍手を続けている。

口に出せば粛清されるから。

表情を固めて、動作を揃えて。

反対など微塵も思ってもいませんよ、という演技を続ける毎日。

にこやかな笑顔。

自信に溢れた振る舞い。

素晴らしい。素晴らしい。

そうやって、またきっと僕たちは失敗を繰り返すのだ。

いや、きっと、ガチなのだ(そうでないはずがない)

いや、そんなことを考えているのは僕だけなのかもしれない。

そう思うことが実際にある。

僕が演技だと思っているものは実はガチで、それもガチ中のガチで、心の底からでそのように思っている人が大半なのかもしれない、とふと思うことがある。

というか、そのように考えなければ、このような非論理的で非数理的な話を実行に移せるはずがないとすら思ってしまう。

強烈な自己暗示(自己催眠)?

いや、そもそも自分の考えなど不要?

官僚としての最終進化形態?

まあ、何でもいい。

僕はそれに嫌気がさしている。

そしてそれを少しでも変えられないかと思っている。

「私」を主語として話をする

王様は裸である。

アンデルセンの童話に出てくる子供のように、僕たちはそれを口に出す必要がある。

その為には口に出しても良いのだ、という環境を構築する必要がある。

僕たちは羊ではない。

僕たちはマシンではない。

誰かが言ったから、とか、誰かがそういう風に考えているはずだから、とか、そういうモノの言い方をやめる。

「私」を主語として物事を進める。

私はどう思うのか?

私はどのように考えるのか?

それを問い、それを答える。

単純なことである。

違うと思えば、私は違うと思うと言う。

正しいと思えば、私は正しいと思うと言う。

発言者を明確にする。

責任者を明確にする。

でも、その発言者や責任者を必要以上に糾弾しない。

それだけでこの現在の環境は大きく変わると僕は思っている。

「はい」か「Yes」しかない選択肢

僕は昔から生意気だと言われ続けてきた。

実際にそういう節はあるし、それは大いに反省しなければならない点である。

でも、本当に生意気なのだろうか、と思うこともある。

意見を述べているだけだ、という感覚が僕にはずっとあるのだ。

ただ、残念ながら、この国においては、意見を述べるというのは反論を言うということと同義であって、「はい」か「Yes」だけ言っていればいいのだ、と彼らは考えているから、僕は「生意気」となるのだろう。

お前の意見など聞いていない。

お前の意見など聞くに値しない。

わかっている。

それはきっと事実なのだろう。

でも同時に僕は生意気なので、こうも思うのだ。

なら、それで成果を出してみろよ?

お前が言う、その正しいやり方で、オレよりも成果を出してみろよ?

ふう。

また、これだ。

だから僕は疎まれるのだろう。

だから僕は嫌われるのだろう。

事実を事実として述べること

もっと大人の言い方が必要だ。

もっと大人の言い方で、「でも王様は裸ですよね」と言うこと。

王様が裸であることを指摘することは反抗ではない。

ただの事実の共有である。

もしかしたら、風邪をひいてしまうかもしれないから。

もしかしたら、迷惑防止条例違反になってしまうかもしれないから。

事実を共有し、前向きな対処をする。

それがそんなにもおかしなことなのだろうか?

それではまた。

いい仕事をしましょう。


あとがき

人は何をそんなに恐れているのだろうか?

そう思うことが僕にはあります。

たぶん多くの人は守りたいものがたくさんあるのでしょう。

でもそれを守ることが自分を殺すだけでなく、社会の活力をも失わせているとしたら?

僕たちは集団自殺を続けようとしているだけだとしたら?

「逃げ切り世代」ならそれでも別にいいのでしょうが、残念ながら僕はまだ若く、逃げ切ることはできないので、それを少しでも変えたいと思っています。

ご賛同は難しいかもしれませんが、もしちょっとでもそう感じる方がいらっしゃれば、目の前のチーム単位からそれをやっていきましょう。

そして粛清されないくらいの圧倒的な成果を出していきましょう。