すぐ泣く部下との付き合い方

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新人の雰囲気が変わってきた

入社してくる社員の性質が変わってから久しい。

こんなことを書くと「自分もおじさんになったものだ…」としみじみ思うのだけれど、ある時を境に、会社に入ってくる新人の雰囲気が変わったように感じている。

それが「具体的にいつか」というのは特定できないし、実際には段階を経て徐々に変わってきているのだろうけれど、大きく変わったと実感するのはここ5年くらいの話であるような気がしている。

彼ら(彼女ら)の特徴としては、達観しているというか、諦めているというか、期待していないというか「世の中ってそんなものですよね、わかっています」という訳知り顔でありながら、他者に対して感じ良く振舞える、というところである。

概して感情面が欠落気味で(というか成熟していなくて)、最適解を求めすぎていて最短距離を走ろうとする感じ。

でも、それが上手くできない者もいる。

そしてそのアンバランスさに自ら嵌り込んでしまう者もいる。

今日はそんな漠然とした話をしていく。

閉じた世界における反応

すぐ泣く部下というのは昔からいる。

でも、その「泣く」という種類(対象)が以前とは少し変わってきているような気がしている。

以前であれば、誰かに言われたことに対するリアクション(怒りや悔しさ、不甲斐なさ)が中心であったように思うが、現在はそうではない。

いや、そうではない、というと適切ではない気もする。

ニュアンスとしては、もう少し「閉じた世界」であるということである。

内向きと広がりのなさ

以前においては、泣くという行為は「他者」との関係性の中で発現するものであったように思う。

文字通り、何らかの「アクション」に対する「リアクション」としての泣くという行為。

それはもちろん現在でも変わらない。

でも、その泣くという対象が内向きになっている。

そして広がりがない

そんな風に感じている。

可能性があることすら知らない?

この広がりのなさ、というのは、自己を改変していこう(自己は改変できるはずだ)という思いのなさに繋がっているような気がしている。

そしてその思いのなさは、主体的に「思わないようにしよう」ということではなく、「その可能性があることすら知らない」というような印象を受けるのである。

上手く伝わっているだろうか?

あまり自信がないけれど、もう少し続けていく。

諦念と半笑い

動的静的

以前はダイナミックであり、現在はスタティックである。

そんなイメージを僕は持っている。

もう少し哲学的な雰囲気を乗せると、以前には他者が存在し、現在は他者が存在していない、そんな感じになるのかもしれない。

いや、もちろん、他者がいるのはどちらも変わらない。

ただ、重要性というか、相互作用というか、それが薄れているのが現在であると思っている。

要は、自己は確固たる自己であって、それは他人も同様であって、だからこそこの現状は変わらないし、打開することもできない、というような諦念(と半笑い)が混じったような感じを僕は受ける。

他者が厳然と存在することを説く

他者はいるけど、実はいない。

そういう部下に対して、どのようなアプローチを取るべきなのだろうか?

以前の僕は、理を説いたり、メリットを上げたり、反省を促したりしながら、「次回に活かそうね」というようなアプローチを取っていたように思う。

もちろん今も大枠は変わらない。

でももう少しそこに他者の存在を入れ込むようにしている。

他者の存在を入れ込む?

そう。

他者というものが厳然とそこに存在すること。

社会には色んな人がいて、色々な考えがあって、自分の論理(正しさ)だけで上手くやっていける訳ではないこと。

時に理路を曲げることも必要であること。

そしてその理路を曲げることは必ずしも悪いことではなく、自分が改変していくことでもあること。

そんなことを話すことが増えてきている。

自己も他者も変化していくもの

彼ら(彼女ら)の「泣く」という行為が、何に端を発しているのか、何がその起動要因になっているのか、それはまだ僕にはわからない。

でも、僕が感じるのは、そこに留まっていても変わらない、ということである。

コミュニケーションというのは、安全地帯にいながら、相手に言葉を投げる(そして受け取る)行為ではない。

それによって自己も他者も変化していくプロセスを伴うものである。

その経験値が彼ら(彼女ら)には絶対的に足りていない。

そしてその閾値はあまりにも低い。

だから、何かコトが起きると、すぐに溢れ出してしまう(泣いてしまう)。

でも、そこから踏み出すことはしない(できない、というか踏み出すという行為があることすら知らないようである)。

僕はそんな風に捉えている。

概念を伝えること

僕はドライな人間なので、彼ら(彼女ら)が泣こうが泣くまいが正直どうでもいい

泣くことによって成果を出せれば評価するし、そうでなければ評価しない、それだけのことである。

ただ、概念だけは教えておく必要はあると感じている。

彼ら(彼女ら)はその概念(他者が存在し、それは自分の思い通りにはならないけれど、改変の余地はある)すら知らないように思えるからである。

知らない状況の中で競わせるのはフェアではない。

でも知った後は彼ら(彼女ら)の責任である。

それではまた。

いい仕事をしましょう。


あとがき

新人はよく泣きます。

でもその「泣く」という行為の中身が変わってきているような気がしています。

本文中でも上手く説明できませんでしたが、その要因は他者の捉え方の変化ではないか、と僕は思っています。

訳知り顔の彼ら(彼女ら)は、社会について何も知りません。

そしてその自覚もありません。

その事実に途方に暮れそうになってしまいます。 その気持ちをぐっと堪え、何とか成果を出せるよう、我慢強く育成していきましょう。