初期衝動を大切に

UnsplashChase Yiが撮影した写真

変わっていないこと

マネージャーになってから、8年以上が経った。

そして3年ほど前からこのブログを始め、現在まで継続をしている。

仕事の傍ら毎日書いているので、だんだんとネタもなくなってくるし、同じようなことばかりを書いているなあ、と虚しくなる時もある。

また、こんなものを書いたところで誰の役に立つんだよ、自慰行為じゃねえか、と思う時も多い。

ただ時々、過去書いたものについて「参考になった」というメールを頂くことがあって、当時自分が書いたものを読み返すことがある。

文章の粗さや、表現の拙さについて、読み返すのが辛い時もあるけれど、そこで書かれている過去の自分の想いみたいなものも蘇ってきて、「変わってないなあ」と思うことになる。

それは負の感情ばかりではない。

良い意味で変わっていないというか、ブレていないというか、そのような正の感情も同時に感じるのだ。

結局のところ、僕は同じところをぐるぐると回っているだけで、それも螺旋階段ではなく、平べったい校庭のようなところを走っているだけで、何の進歩もしていないのではないかという感情と、いやいやその変わっていなさも悪くないんじゃないかという感情が同時に押し寄せてくる。

そして、今日はそのポジティブな感情の方を文章化してみようという試みである。

どちらかというと内省的な文章になると思うけれど、お付き合い頂けたら幸いである。

それでは始めていこう。

努力は無意味だ

結局は人間性。

マネジメントという仕事を始めて数年が経った時に僕が痛感し、現在でも継続して思っていることがこれである。

どんなに経験を積んでも、テクニックを覚えても、結局のところ、その人が人としてきちんとしていなければどうしようもないということ。

これはとても残酷な現実である。

そして同時にこのブログの無意味性を担保することにもなる。

人間性が優れているか否か、そのスタートラインの時点で既に勝敗は決しているから。

だから、何を読んだところで、それを現実の仕事に取り入れたところで、その人の仕事の質が上がることはない。

結果、僕が目指している日本のマネジメント力の向上なんてものは、夢のまた夢でしかない。

そんな風に感じてしまうことが度々ある。

変わらない初期衝動

また、自分自身も日々の仕事に悩み、全然うまくいかないことが重なったりして、そんな奴が書いているものが、何らかの効力を発揮することなんてある訳がないと思うこともある。

まずてめえがいい仕事なんてできてねえじゃねえか、と自責することも多い。

ただ、冒頭に書いたように、何らかのきっかけによって過去自分が書いたものを読み返す時があって、その際に過去の自分に励まされるというか、人間性がクソでも、仕事の質が向上していなくても、それなりに意味があるのではないかと、自分を慰めることができたりもする。

そして、その種の初期衝動のようなものが、良い意味でも悪い意味でも僕自身の人間性をよく表しているとも思うのである。

拠り所となるもの

マネジメントというのは自分と向き合う仕事であって、それも自分の弱い部分というか、嫌な部分に否応なし向き合わざるを得ない仕事である、と僕は思っている。

その際に逃げないで済むためには、何らかの拠り所が必要となる。

それが初期衝動なのではないか、そんな風に思うのだ。

志向性を持っていること

変わっていないこと、それ自体はどうしようもないというか、どうしようもできないことである。

ただ、その変わっていなさを受け止める方法は変えることができる。

そして、大事なことは、変わっていない現状を受け止めても、尚、進みたい方向に向いているかどうか、ということであるような気がするのだ。

僕は「それでも」という言葉が好きで、どうしようもない人間性を抱えていても、それに直面し日々赤面していても、それでも何とかそうじゃない人間になりたいと思う(結局はそうはなれないのだけれど)ところに意味がある、と思っている。

というか、思いたいと思っている。

それが僕が言う「志向性」というものである。

僕が無理やり自分の人間性の良い部分を掘り出すなら、それはこの「志向性」という初期衝動を持ち続けているその点にある、そう思うのだ。

何も変わらない。それでも。

現状は変わらない。

僕自身も、勤めている会社も、日本社会も変わらない。

その度に絶望的な気分になる。

それでも、僕はまだ向上したいと思い続けている。

そして何らかの影響を与えられるのではないかと勘違いを続けている。

それは傍から見れば、マヌケな姿なのかもしれない。

結局のところ、僕はドン・キホーテのように風車に向かって戦いを挑んでいるだけ、そうなのかもしれない。

それでも、だ。

無意味性を受け止めること

僕がやっていることは無意味で、日々仕事でやっていることも無意味で、このブログに書いていることも無意味で、それはたぶん変わらない。

無意味なものは無意味でしかない。

でも、それでも、斜め上を向くことはできるとは思うのだ。

有意味性を求めるのではなく、無意味性を受け止めながら、それでも足を止めないこと。

そんなブログをこれからも書いていこうと思っている。

それではまた。

いい仕事をしましょう。

あとがき

人生は無意味だ。

そして当然ながら仕事も無意味である。

そんなことを考えながら、日々仕事をしています。

これは何か絶望的なことがあった訳ではなく、昔からこのように考える傾向が僕にはあります。

でも、決してネガティブではないというか。

以前にも書いたように、意味を求めるから失望してしまうのであって、意味や目的など持たず、その瞬間瞬間の快の感情を大切にすることが大事なのではないか、そう思っています。

と言っても、刹那的に生きるのでもなく。

そして、その際のスタンスとして、僕は向かいたい方向へ向かいたいと思うその心性を持っていることが、人生において心地良く生きる秘訣なのではないかと考えています。

それでも、という言葉と共に、進んでいきましょう。