死を考えるほどつらい夜に

Unsplasheberhard 🖐 grossgasteigerが撮影した写真

明日を明日としてやり過ごすこと

仕事が辛い。

会社のことを考えるだけで胃がギュッと重くなる。

帰り道、駅のホームに急行が滑り込んでくる度、あと一歩踏み出せば楽になるのにな、と考える毎日。

そんな夜が僕にはあった。

もちろん、本気で死を考えている人からすれば、そんなものは子供の狂言みたいなものに聞こえるのかもしれない。

でも、辛さというのは相対化できるものではないのも事実で、僕は僕なりに、僕の絶対的尺度の中で、死というものが眼前に迫ってきた時期というのがあった。

今となれば、なぜそんなに思い詰めていたのかと思えるけれど、その時の僕は真剣そのもので、本当に明日が来ることに対して絶望し続けていた。

「死ぬこと以外はかすり傷」

確かにそうかもしれない。

でも、死よりも深い傷はある(だから皆自死を選ぶ訳だ)。

そして、その時期を潜り抜けた僕が言えるのは(またいつそのトンネルに入ってしまうかはわからないけれど)、倒れていないその事実だけを言祝いでもいいのではないか、ということである。

傷を負っていても、絶望に塗れていても、取り敢えず明日を明日としてやり過ごすこと。

それを繰り返していくこと。

そうやって、いつしか死神が諦めるのを待つ。

今日はそんなつらい夜を越そうとしている人へのエールを書いていこうと思う。

今日もどこかで60人が自殺している

「日本では年間2万人ほど自殺者がいる」

厚生労働省の資料によると、令和4年の年間自殺者は21,881人とのことで、これは月当たり約1,800人、1日に直すと60人ほど自殺している計算になる。

今日も日本のどこかで60人が自殺しているのだ。

そう考えると、どうにもやるせない気持ちになる。

もちろん、それぞれの状況は異なるだろうし、一概に「自殺ダメ。ぜったい」と言えるほど、僕は純粋でもない。

冒頭にも書いたように、死よりもつらい状況というのは(相当程度)起こり得るから。

ただ、そうは言っても、流石に気分が滅入ってくる。

そして、年齢階層で40代(3,665人)、50代(4,093人)が多いことを見聞きすると、その未来のなさに、とても暗い気持ちになる。

このブログは主にマネジメントの仕事をしている人に向けて書いているので、否が応でも、その辺の年齢層の人が毎日20人ほど自殺していることを考えてしまうことになる。

つらい夜を超える為には装備が必要だ

ブルシットな仕事。

コロナ以後の世界では、仕事の無意味性というものが、より露わになったような気がしている。

今まで見ないようにしていたものが、露出し、腐臭を発しているみたいに、僕たちの精神を蝕んでいく。

「自分の仕事は完全に無意味で、不必要で、もしかしたら有害ですらある」

そう思いながら仕事を続けていくこと。

それによって生き永らえているという事実も込みで。

それがなければ現在の生活を続けることは困難で、でもその仕事というのは完全に無意味であり、誰の役に立っている訳でもない。

ただ、そのような仕事であっても、過度なプレッシャーはあり、仕事に行くのに困難を覚えることさえあるという矛盾した状況。

手を放そうと思えばすぐできるはずなのに、そこにしがみ付いている卑小な自分。

そして未来への展望のなさ。

このような現実が、いつまでも続いていくような無力感。

そのようなものが混然一体となって、もうどうでもいいやって思ってしまう夜。

それを超える為の装備とは?

ただの点としての毎日を繰り返すこと。それでOKでは?

冒頭に、倒れていないその事実だけを言祝いでもいいのではないか、と僕は書いた。

ここには過去の後悔も、未来への展望も含まれていない。

ただの現在がそこにあるだけ。

その現在を点として繰り返していくこと。

そこに想い願望や、その反対の絶望なんてものは含まれていない。

ただの無感情な点。

そのようなウォーキング・デッドとしての日々。

それで十分なのでは?

僕はそう思うのだ。

毎日を繰り返したところで好転はしない。それでも。

たぶん明日は今日よりも悪くなるし、未来も好転していくことはないだろう。

努力したところで、その努力なんてものが人生に及ぼす影響はたかが知れていて、このブルシットな毎日が未来永劫続いていくことも変わらないだろう。

死にたいほどの傷の痛み。

それが癒えることもない。

それに耐えられるだけの胆力を身に付けることもなさそうだ。

それならどうして日々を続けるのか?

単時点で、今日限りで、終わらせてしまった方が楽なのではないか?

もしかしたら、そうなのかもしれない。

でも、僕はその1日を繰り返して今日まで辿り着いた。

だからと言って、ポジティブな訳でもない。

現状は相変わらず。

死神はちょっと離れたけれど、まだその気配は確実にあるし、たぶん部屋の隅っこで小さくなっているだけ。

それでも、だ。

救済? 天啓? そんなものないぜ。それでも。

死はある人にとって救済である(例えばかつての僕がそう考えたように)。

だから、それを頭から否定するつもりはない。

そして、今回僕が主張しているような日々を繰り返すことで、何かスペシャルなことが訪れる訳でもない。

つらい傷はつらいまま、しんどいことはしんどいまま、そこにずっとあり続ける。

それでも。

雨曝しのまま。それでも。

外はずっと土砂降りで、僕は傘もなくそこに佇んだまま。

良いことなんて何一つ起こりやしない。

それでも。

未来を今日にしよう

ただ日々をやり過ごすこと。

それを続けること。

明日が明後日になり、明々後日になり、今日になること。

僕はそうやって今日まで生きている。

あなたもそうであるなら、こんなに嬉しいことはない。

それではまた。

いい仕事をしましょう。

あとがき

責任感の強さ。

人生に対する真剣さ。

それを少し手放してみてもいいのでは?

僕はおじさんになって、かつての極端にシリアスな僕に対して、そう言ってあげたい気持ちになっています。

もちろん、まだ死というもの経験していないので、現在よりもそちらの方が良いという可能性は残っています(また、量子不死仮説のように、そもそも死とは僕らが考えているようなものではないのかもしれません)。

でも、どうせ、いつか経験することになるのも事実です。

だったら、それが今夜である必要もないのでは?

当時の僕が聞いたら軽蔑してしまうような戯言を、僕はいま結構真剣に考えています。

共に生き延びましょう。