受け身部下と日本社会

UnsplashDoğukan Şahinが撮影した写真

他責志向の人ばかり

「部下が受け身で困っている」

そんな相談を受けることがある。

確かに、多くの部下は受け身だ。

というか、日本社会に生きる殆どの人は受け身であると僕は思う。

「誰かが何かを(私の為に)してくれるのは当然である」

「でも現状はそうではない」

「そうでないのは問題だ」

「だから改善しろ(私はそこに留まるが)」

というような人ばかり。

親、教師、上司、会社、その他諸々の「誰か」。

それらが自分の為に自動的に何かをしてくれると口を開けたまま待っているだけの人達。

そして自分が満たされないのは、それらに問題があると主張する人達。

そんな人たちばかりの中で、僕たちマネージャーは仕事をしている。

そりゃそもそものゲームの設定として、難しくて当然ですよね?

今日はそんな愚痴めいた話である。

仕事=教えてもらって当然?

新しい業務が始まると、若手だけではなく、多くの人たちが「教えて貰っていない」という不満を漏らす。

気持ちはわからないではない。

でも、その状態は全員(もちろんマネージャーも)一緒である。

新しい業務というのは、誰にとっても新しい業務だから新しい業務というのであり、だからこそ皆が主体的にその新しい業務に対して向かっていかなければならない

ましてや、この流れの速い現代という時代である。

業務内容だけでなく、システムや人事制度など、様々なものがそのスピードに追い付くべくどんどんと変わっていく。

AIやChatGPTなど、新しい技術の使用方法も含め、その方向性は多岐に亘る。

その度に彼(彼女)らは不平不満を漏らす。

「前の方が良かった」

「よくわからない」

「研修もないのに無理」

繰り返すが、気持ちはわからなくはない。

確かに、社会や会社の変化がやや拙速すぎるような気もしないではない。

でも、だからと言ってその流れや状況は変わらないのだから、その新しいモノに対して主体的に取り組むしかないのでは?(不満を言ったところで、回帰することはないのだし)と僕は思ってしまうのである。

もっと言えば、その不満の矛先がマネージャーに向かったとて、それはお門違いなんじゃないか、という気もする。

被害者の立場で居続けようとすることへの疑問

もちろん、マネージャーは管理者の立場であり、部下が仕事をし易いように、様々な環境を整備すべきである、という主張は理解できる。

ただ、その主張には程度があって、私にとって最適な環境がなければ働きたくない、という主張は欲張り過ぎなのではないか、と僕は思う。

ましてや、そのような主張が通るほど、普段からその人たちが会社にとって貢献をしていない(ように見える)のであれば尚のことである。

でも、彼(彼女)らがそう思うことはない。

永遠に。

ずっと被害者の立場で居続けようとするのだ。

これが僕にはよくわからない。

えなり的転回

いや、(再び繰り返すが)そう言いたくなる気持ちはわかるのだ。

そして、僕だってたまにはそのようなことを言ったりすることも事実である。

でも、その先においては、「そんなこと言ったってしょうがないじゃないか」というえなり的転回が僕にはある。

仕事というのは、ボランティアではない。

ましてや、誰かに強制されている奴隷労働でもない。

その中で、それなりの主体的努力が求められるのは自明なのでは?

(やや厳しいかもしれないが)僕はそう思ってしまうのである。

私は虐げられているという主張

「誰かが何かを決めてくれる」

「私はそれに(唯々諾々と)従っているだけ」

でも(だから)不満は言わせて頂きますよ」

そのようなスタンス。

そうやってこれからも生きていくのだろうか?

部下が受け身であるのはマネージャーのせい。だけど…

僕は部下が受け身であるのは、マネージャーにも責任があるということをずっと主張してきた。

それは自戒を込めたものでもある。

そして、マネージャーの仕事として、そのように考えることが有用であるという功利的な側面もある。

でも、「それを大前提としても、流石に酷いんじゃないか?」と思うことはある。

そして、そのような酷さに眩暈がし、マネジメントという仕事を続けることの虚しさと、馬鹿らしさが湧いてくる。

低生産性の議論

生産性の概念。

「日本」と検索エンジンに打てば、「生産性が低い」と予測変換が出るくらい(実際は出ないが)、その2つの言葉はセットで使われる。

その度に、「まあそうだよね」と僕は思う。

もちろん、日本社会全体としての問題がそこにはあると思う。

そして多くの人が仕事に対して受動的に取り組む(取り組んでしまう)という事象は、その大きな問題の1つの現れなのかもしれない。

たださ、と僕は思うのである。

そして、もう少しどうにかする術はあるのではないか、とも思う。

親鳥はいない(というか始めから存在していない)

タブーとされる解雇の議論。

そこまでいかなくとも、減給の議論。

それが難しければ、成果を上げた人への重点的な配分による傾斜の拡大。

それがなければ、真面目に前向きに仕事に取り組むなんて馬鹿らしくてやっていられない。

Z世代が早々に会社に見切りを付ける気持ちが僕にはよくわかる(もちろんその浅慮にウンザリしたりもする)。

口を開けて待っていても、誰かがエサを運んでくれる訳ではない。

親鳥はもういない。

というか、たぶん、そもそも存在すらしていなかった(誰かがそれを疑似的に代行していただけ)のだ。

それではまた。

いい仕事をしましょう。

あとがき

日本社会が受動的であるのは、歴史的な背景があるのは事実でしょう。

何をやっても無駄。

お上の言うことには逆らえない。

だったら、その状態を甘受すれば?

権利だけ主張して、義務を履行しないのは違うのではないか?

僕はそう思ってしまいます。

トップダウンの(的外れな)意思決定もどうかと思いますが、それに不満を持ちながらも、ニコニコして受け入れている人達(でも実際には陰口満載)にも、僕は与したくありません。

単純に、真っ当に働いている人が真っ当に報われて欲しいと思っているだけです。

完全ではなくても、もう少し良化する方法はあるはずです。

主体的に仕事に取り組んでいきましょう。