理想と現実

UnsplashAnne Nygårdが撮影した写真

人間は成長するのか?

2・6・2の法則を例に挙げて、「6の部分をどうにかするのがマネージャーの仕事である」と言われることがある。

まあ言わんとしていることはわからないではない。

上位の2割はマネージャーの関与がなくても勝手に成果を上げるし、下位の2割はマネージャーがどう頑張っても成果が上がらない、だからその中間層である6割を何とかしろ、というような言説(そしてここには構成変化の概念は含まれていないことが多い)。

ここには「人間は成長するものだ」という思想が含まれているような気がする。

何らかの外的刺激があれば、人は変わり、成果を上げるようになるはずだ、という考え方。

学生など、社会人になるまでは、その通りだと僕も思う。

もう少し甘めに判定して、社会人3年目くらいまでなら、許容できないこともないとも思う。

でも、現実においてはそれは不可能だ。

あまりにも理想論的過ぎる。

今日はそんな話である。

簡単に言うけど、ボトムアップは難しい

ボトムアップ。

この言葉は大抵の場合ポジティブなものとして扱われる。

部下の育成の場合においても同様である。

「みんなを底上げ(ボトムアップ)してくれ」

この言葉を多くの人は簡単に使う。

でも僕はこの考え方に懐疑的である。

むしろ「底上げ?(笑)」みたいな、嘲笑的な印象すら受けてしまうくらいだ。

それができるなら、とっくにしている。

そうできないから、マネジメントという仕事は難しいのである。

仕事だって才能が関係している

僕は差別主義者ではないと自認しているけれど、育成という観点においては差別主義的な考え方を持っていると言えるかもしれない。

というのも、そこにはどう繕っても才能という概念が付き纏ってくるからである。

スポーツでも学業でももちろん仕事でも、そこには才能というものが必ず関係している。

もちろん、努力によってその差を埋めることはできる。

でも、どう頑張っても埋まらない差というものはある。

これは厳然たる事実である。

そこに目を背けてはいけない。

ただ、だからと言って努力が無駄であるということを言いたい訳ではない。

努力は必要だ。

でも、同時にその限界を知っておくことは、この(資本主義的な)社会で(心地よく)生きていく為には必要であると僕は思っている。

パレートの法則

2・6・2の法則と同じくらい、ビジネスにおいて使われる概念として、パレートの法則というものがある。

これはザックリ言うと、(営業担当者の場合)売上の8割は2割の社員によってもたらされる、という考え方である。

そして僕はこの考え方の方がしっくりくる。

営業マンとして長く仕事をしてきた僕は、また営業マネージャーとしての経験を重ねてきた僕は、こちらの方が現実に即していると思っている。

先程の2・6・2の法則になぞらえるなら、上位の2割だけで成果の8割は決まる、ということになる訳で、となると、中間の6割をどうこうしたところで、大きな差異にはならない、そう思ってしまうのだ。

もちろん、その6割の成果によって、競争上の優劣が確定するというのは事実だろう。

成果が8割に留まるのか、8割5分ないし9割までいけるのかは、そのような中間層の出来に関わっているというのはその通りだとは思う。

でも、マネジメントという仕事をしている者が、そのリソースをどう配分するかということを考えた際に、「中間の6割に注ぎ込むのが有用である」と判断するのは、やっぱり間違っていると僕は思う。

同じ8割5分や9割を目指すなら、上位2割が更に高い成果を上げられるような環境を構築する方が、少ないリソースで高い成果を上げられる可能性が高い、と僕は思ってしまう。

平等や公平で才能を縛っていないか?

もちろん、平等は大事だ。

そして、公平性の概念も重要である。

でも、それによって、「社会全体の活力が奪われてしまうのも事実なのでは?」と僕は思ってしまう。

「みんなで向上していこう!」という考え方は、ピースフルだし、とても素晴らしい考え方だ。

ただ一方で、それは不可能だとも思ってしまう。

現実はもっと困難であるから。

僕たちは資本主義社会で暮らしている。

もちろん、資本主義社会の是非や、日本が本当に資本主義社会なのかという議論はそこにあるとは思う。

でも、仮に日本が資本主義社会であるとするなら、そこには優劣が生まれるのはある種必然であって、考えるべきは「その後の話」であるような気が僕はしている。

事前に平等や公平(や同調圧力)という概念で個人の才能を縛るのではなく、その人たちに十分に才能を発揮してもらった後で、ノブレス・オブリージュ的な役割を担ってもらう方が、僕には健全な社会であるように思える。

適切な傾斜を

もちろん、程度問題ではある。

ただ、あまりにも理想論的なものに縛られていると、社会全体が停滞して、結果としてそこにいる成員が皆幸福にはなれないのではないか、とも思ってしまうのだ。

だからと言って、僕はマネジメントにおいて中間の6割(や下位2割)を見捨てる訳ではないけれど、もう少し上位の2割を伸ばす方向に体力をかけてもいいのではないか(それを社会としても許容してもいいのではないか)とは思っている。

理想は理解する。

でも、現実は現実だ。

才能を潰さない社会を。

そこにもっとリソースを。

それではまた。

いい仕事をしましょう。

あとがき

マネージャーは正しいことを言わなければならない。

そんな圧力を感じる時が僕にはあります。

いや、マネージャーに限ったことではないのかもしれません。

公の場では、大人は正しいことを言わなければならない(ポリティカルにコレクトなことを)。

それはその通りだと思います。

でも、あまりにもそちらに偏り過ぎると、面白みがなくなってしまうような気もしています。

平等や公平の概念はとても大事ですが、活力が失われるなら、少し調整が必要です。

適度に不適切なことも言っていきましょう。