まともでいること

UnsplashJakob Braunが撮影した写真

まともでいることの収支は分かり易く提示されるものではない

何をもって「まとも」と定義するのかは難しいところだけれど、マネージャーになって、それも年数が経てば経つほど、この重要性がじわじわとわかってきた。

これは「日頃の行い」と言い換えてもいいかもしれない。

日々の些細な行動、判断の数々、それらの累積によって、マネージャーに対する信頼度というのは大きく変わっていく。

でも、それは日常の仕事において、分かり易く提示されるものではない。

何というか、じんわりと底流したものとしてそこにあるような感じなのである。

これは裏を返せば、「まともではない」マネージャーがそれなりに多くいる、ということなのかもしれない。

かつての僕もそうだったけれど、出世したいと思っていたり、誰かから評価されたいと思っていたりすると、判断に迷いが生じることがある。

そして、残念ながら、「まともではない」判断や行動をしてしまうことがある。

それはその時点ではいいかもしれないけれど、最終的な収支は大きな赤字になってしまう。

今日はそんな話である。

もう既に勝敗はついてしまっているけれど…

「結局は人間性」

これはこのブログの中で何度も取り上げてきた言葉である。

僕はマネジメントというのは、人間性の良し悪しによってその大半は既に決まっていると思っていて、そこで(その後)どのような努力をしたとしても、その乖離を埋め合わせることは難しいという、ある種の諦念を持って仕事を続けている。

そして、この文脈からご理解頂けるように、僕の人間性は残念ながら良くない。

クソではないと思うけれど、どう贔屓目に見ても普通未満であることは間違いない。

そのような僕が未だにマネジメントという仕事に携わっている。

それは不思議なことではある。

でも、そのような事態を自分なりに解釈するとするなら、人間性はどうしようもないけれど、どうしようもないことに対する自覚はあり、そのどうしようもなさをどうにかしようとはしている、というところに僕がマネージャーという仕事を続けられている理由があるような気もしている。

まともなフリはできるのでは?

僕はまともでありたいと思っている。

元々の人間性はダメであるが、それを何とか改善したいとは思っている。

もちろん、人間性というのは改善できるものではない(そもそもの性質だから)。

でも、(振る舞いとして)まともでいる(まともに見せる)ことはできるようには思うのだ。

没個性化と組織への順応は不可欠。でも…

言葉の重要性。

これもこのブログの中で何度も取り上げてきたテーマである。

僕はマネージャーになってから、できるだけ自分の言葉をメッセージの中に織り交ぜるように心掛けてきた。

というのも、マネージャーという仕事においては、会社や上司から伝えられる「命令」を部下にきちんと伝えるというのがその仕事の大半を占め、その中にはマネージャー自身の「個性」のようなものをいかに消すかが重要であったりもするからである。

没個性化と組織への順応。

それは中間管理職であるミドルマネージャーには必要不可欠な要素である。

そして、今回僕が主張したいことも、それを捨てなさいということでは決してない。

それは社会で生きる上で必要なものだ。

でも、そのようなものを前提としても、まともでいることは重要であると僕は思うのである。

自分の言葉と会社の言葉

本音と建前。

会社から指示されるアレコレに対して、自分の言葉と会社の言葉を混ぜながら話をする人は多い。

それは責任の所在を誤魔化せるからであると僕は思っている。

何なら、「会社がこう言っているから仕方ないんだよ」と部下に釈明している人はたくさんいる。

それは(繰り返すが)決して悪いことではない。

というか、むしろ良いことですらあるかもしれない。

でも、そこに何らかの葛藤みたいなものがないのであれば、部下からの信認は得られないとも思うのだ。

部下からの信認は意味を為さないかもしれないけれど

もちろん、部下からの信認を得たとして、それが何になるのか、という議論はあると思う。

マネジメントという仕事において、部下からの信認があろうがなかろうが、その大勢を決する要素にはなりにくい、というのは、僕が多くの他のマネージャーの仕事を見てきて思うことでもあるから。

ただ、である。

それがなければ、マネジメントという仕事の醍醐味はわからないのだろうな、とは思ってしまう。

フィリップ・マーロウ

「タフでなければ生きていけない。優しくなければ生きている資格がない」

チャンドラーのこの言葉は、組織の中でマネジメントという仕事をしていると否が応でも考えなければならない時がある。

マネージャーはタフでなければならない。

これは大前提だ。

でも、優しくなければ、まともでなければ、その仕事をしている意味はないのではないか。

僕はそう思ってしまう。

だから僕は偉くなれないのだろう。

ただ、それでもいいのではないか、と最近の僕は思っている。

この僕で戦うしかない(開き直り過ぎずに)

ありがたいことに、僕のような偏屈な人間が未だにマネジメントという仕事を続けられている。

それは迷いながらも日々している決断や行動の数々が、それなりの信認を得ているからだと自分では思っている。

もちろん、冒頭に書いたように、何がまともで何がまともではないかという線引きは難しい。

結局は自己満足に過ぎない、それもその通りだろう。

でも、と僕は思うのだ。

これからもこのスタイルで僕はマネジメントという仕事を続けていこうと思っている。

それではまた。

いい仕事をしましょう。

あとがき

偉くなることに何の意味があるのか?

中学二年生のような疑問を時折僕は思う時があります。

おじさま方は「偉くなればやりたいことができるようになるんだ。だから偉くなりなさい」と言ってくるのですが、現在偉くなっている人達がその「やりたいこと」をやっているようには僕には見えません。

上に行っても、その時のしがらみ等々によって、結局は絡めとられるだけなのでは?

というか、ある種の「踏み絵」みたいなものを踏まないと、そもそも偉くなれないのでは?

そこまでして偉くなる意味ってある?

僕は自分が思う「まともさ」を保持しながら、成果も上げ、会社にも認められ偉くなる、という極細の道を通ろう(通りたい)と思っています。

(難しいとは思いますが)ご賛同頂けたら幸いです。