好事例共有に食傷気味なあなたへ
好事例の連発。でも当社は低迷中。
SNSネイティブ世代ではない僕は、「良いことは共有するものだ」という価値観に未だ馴染めないまま、化石のような気持ちで現代を過ごしている。
これは社内においても同様である。
社内SNSやチャットツールなど、そこには各部署・各チームの好事例がこれでもかというくらい掲載されている。
もちろん、趣旨はわかる。
「成功事例を参考にすることで、皆でレベルアップしていく」
ただ、捻じ曲がった僕はこのようにも思う。
「これだけ各部署で好事例が連発しているのに、なぜ当社はこのような停滞を続けているのか?」と。
確かに、良いことは共有した方が良いのかもしれない。
でも、それは本当に良いことに限定すべきなのではないか?
というか、そこに何らかの審査(or判断)基準がなければ、(現状のように)無法地帯になるだけなのではないか?
少なくとも、僕は好事例に胸焼け気味である。
今日はそんな話だ。
願望込みのフィクションばかり
この数年、特にコロナを経て、好事例を社内SNSに投稿しなさい、という圧力が強まっているように感じる。
これはメンバーもそうだし、マネージャーもそうだ。
チームで起こった良いことを、全社員に展開しなさいという指示。
別におかしなところはないように思える。
でも、これが全社で一斉に行われると、その質は正に玉石混交で、どれが本当に良い話なのかが全くわからなくなってくる。
「こちらがアップする際にも話を盛っているから、ここに出ている話も盛られているのだろうな」という考え方の氾濫。
そして、エスカレート。
結果、(願望込みの)フィクションばかりがそこに並ぶことになる。
何か変わりましたっけ?
導入当初、というかまだ事態がそこまで深刻じゃなかった時には、僕もそこに書いてある情報を参考にしていたこともあったけれど、最近はもうどうでもいいというか、「書くの大変だろうな…」という気持ちでそれらを眺めている。
たくさんのキラキラした話。
別の会社のような夢物語。
さて。
それで何かオレの仕事内容は良くなったんだっけ?
当社の業績は改善したんだっけ?
そんなことを醒めた僕は考えてしまうのだ。
Healthy? Hell see?
確かに批判し合うよりは、良いことを言い合った方が健康的であるように僕も思う。
でも、良い話の濫立が続くと、流石に食傷気味になる。
美味しい食べ物ばかりが続くと、時々はお茶漬けが食べたくなる。
そんな気分なのだ。
審美眼を鍛える
それを受けて、単純に数を減らしたらいいのではないか、と僕は思っている。
取り敢えずアップすればいい、アップしなければならない、という状況をやめて、もう少し自由意思に任せれば、多少は数自体が少なくなると思う。
そして、何よりも大事なことは、それを見る人の目(審美眼)を鍛えることである。
冒頭に審査(or判断)基準ということを書いたけれど、数の濫立はある程度仕方がないと思うし、事前に検閲を入れるというのは現実的ではないと僕は考えている。
となると、ここで言う審査基準というのは、事後における審美眼によって、その質を担保するということになるだろう。
僕が良くないと思うのは、大したことがないものに対してコメントを付ける、それに更に誰かが被せる、そうやって盛り上がっているように装う、というこの一連の流れである。
そして、たぶん彼(彼女)らが重要視しているのは、内容云々よりも、盛り上がっていることそれ自体なのである。
それを是正したらいいのではないか、というのが僕からの提案である。
質の悪いものは買わない
これは最近の僕のテーマである、「評価者の質の向上」というところにも繋がってくる。
要は「どうせ誰もその質なんてわからないのだから、粗悪品でも何でも市場に出してしまえ」というような動機を失くす為に、質の悪いものは買わない(評価しない)という状況を作る、ということを僕は考えている。
その為には、見る者の目を鍛えるしかない。
それも一定数以上の。
たぶん海外から持ち込まれた「いいね!」文化は、個が個として成り立っているから上手くいくもので、そこに日本流忖度が混じると、このように訳の分からない状態になってしまうから、それを是正する為の何らかの方法が必要なのだと僕は考えている。
確かにみんなで良いものを共有すること自体は悪ではない。
ただ、その為には、その質を担保する為の構成員全体のレベルアップが必要となる。
というか、もう少し「下らないものを下らないね」と言えるような環境構築ができれば、こんなことはすぐに下火になるのかもしれない。
言いたいこと(少しは)言おうぜ?
きっと(僕だけでなく)みんな不承不承やっているのだ。
祭りが開催されているから、それに乗り遅れると村八分にされるから、楽しそうに踊っているけれど、本当はあまり楽しくないのかもしれない。
でも、言い出せずにいる。
「この祭りやめませんか?」と言うことがタブー化してしまっている。
となると、話は転じて、おかしいと思うことには乗らない、それなりに否定的な発言もする、という穏当なところに着地するような気がしてきた。
忖度なく意見を言うこと。
それを受け入れること。
そんな当たり前のことができるようになれば、この胸焼けも、少しは解消されるのかもしれない。
それではまた。
いい仕事をしましょう。
あとがき
良いこととか良い人とか、そういうものに若干疲れてきてしまっています。
もちろん、それが本当に良いことであったり、本当に良い人であれば何も言うことはありません。
でも、そうじゃないからとても疲れる。
そんな感じです。
ダメなものはどう繕ってもダメです。
そのような目を持ち、適切な批評をしてきましょう。