「できるからやる」の?
できない人は免責される?
仕事の線引き。
ジョブ・ディスクリプションの議論も世間ではだいぶ一般的になってきたようだけれど、当社は相変わらず曖昧な状態のまま仕事をしている。
でも、ジョブ・ディスクリプションの香りのようなものは漂っていて、「それは私の仕事ではない」と平然と言い放つ人も増えてきたように感じる。
となると、「間に落ちる仕事」「グレー領域の仕事」を誰がやるのか、という問題が恒常的に生じることになる。
そして、その解として、「できる人がやる」ということに落ち着くことが多い。
これに僕は疑問を感じている。
僕はマネージャーの経験も長く、プレイヤー時代も色々な方面に顔を突っ込んでいたこともあって、ある程度業務領域が広い方(でも浅い)だと自負している。
この言いぶりでもう既にご理解頂けたと思うけれど、そうなると「間に落ちる仕事」が生じた時に僕に仕事が回ってくることが増えてくる。
まあ、別に構わない。
できないことではないし。
ただ同時に、「何かおかしくないか?」とも思う。
他の部署やチームの仕事ですら、「そのラインの上司がその業務ができないから」という理由で、僕がその面倒をみたりもするのは流石にどうなのだろうか。
というか、それをその上司も当然のように考えているのっていかがなものなのだろうか、と僕は思ってしまう。
今日はそんな愚痴めいた話である。
静かな退職
「静かな退職(Quiet Quitting)」という言葉を最近ネットニュースで知った。
これは「給料を貰っている分だけ働くこと」「仕事上、定められている責任以上の働きをするという考え方をやめる」ということを指すらしい。
ただ、字面だけを見るなら、僕はそこに対して批判的な感情は湧いてこない。
ここからは「給料分は働いている」という意味が読み取れるから。
というか、「給料分働いているならそれ以上働く意味なんてある?」と共感すら覚えてしまうくらいだ。
「給料分の働き」とは?
これはジョブ・ディスクリプションとも親和性が高い概念でもあるだろう。
アメリカ社会のように、ある程度それが普遍的なものになっているのであれば、それにとやかく言ったり、言われたりする筋合いはないように僕には思える。
さて。
僕が疑問に思うのは、「給料分の働き」とはどのくらいのことを指すのか、という点である。
そして、これはきっと自身の評価軸と他者からの評価軸が異なるものだろうとも思っている。
もちろん、まずジョブ・ディスクリプションをきちんとすべきだ、仕事の範囲を明確に定めるべきだ、という主張は理解できる。
でも、少なくとも当社の場合はまだここまで行っていない。
冒頭に書いたように、グレー領域の仕事はたくさん残存している。
となると、また同じところに話が戻ってくる。
仕事内容に合わせて賃金も調整すべきでは?
例えば同じ課長という役職で、Aさんは仕事が多く、Bさんは仕事が少ない状況において、「給料分の働き」というのはどのような意味を持つのだろうか?
僕は「AさんとBさんは同じくらいの仕事をする(量も質も)」というのが「給料分の働き」という意味であると解釈する(まあ多少の給料の差は捨象するとしよう)。
となると、もしBさんが本来必要な業務量(と質)を満たしていないとするなら、Bさんの給料を下げるべきなのではないか、という疑問が湧いてくる。
また、Aさんが給料分の働き以上の働きをしているのであれば、その給料を上げるべきなのではないか、とも思ってしまう。
これっておかしなことなのだろうか?
評価できないことが問題なのでは?
結局のところ、会社はその辺を曖昧し、個々人の善意に頼った運営をしていることが問題なのかもしれない。
この例で言うなら、AさんもBさんも、自分の意思でそのように働いている訳ではない(だろう)。
となると、最近の僕の課題認識にまた戻ってくる。
「評価者の質」が問題なのでは? と。
そして、それを処遇に(ある程度ダイレクトに)反映させるべきなのでは? と。
私はその仕事ができない=その仕事は私の仕事ではない?
「私はその仕事ができない」「であるからして、その仕事は私の仕事ではない」というような論法を取ることが有利な状況は、やはり改善すべきであると僕は考えている。
そのポジション(立場)にいる人なら、仮に今その仕事ができなくても、その仕事は自分の仕事であるという認識はせめて必要なのではないか?
そして、現状その仕事ができないことに対して、申し訳なさというか、不全感は感じた方がいいのではないか?
また、その為に会社も必要な職務内容と実際の職務内容が合致しているかをきちんと評価する(評価し続ける)必要があるのではないか?
静かな退職で割を食う人を救う必要があるのでは?
非常に感覚的な話にはなるが、今の時代は「仕事ができる方が損」なような気がしてしまっている。
「静かな退職」をする人、それを選択する人は、別に構わない。
それは個人の自由だ。
でも、それによって別の誰かが割を食っているとするなら、そこは是正すべきなのではないかと僕は思ってしまう。
少なくとも、「静かな退職」をすることに躊躇いが生じるような格差は必要なのではないか?
僕はそんな風に思うのだ。
予想通りただの愚痴になった。
それではまた。
いい仕事をしましょう。
あとがき
「できないならOK!」という謎のロジック。
それを最近感じることが多いです。
だったら、オレもできないって言いたいぜ。
表現が難しいですが、この国(当社だけ?)は「仕事できない競争」を皆でやって、皆で沈没していくのでしょう。
それでいいならいいのですが。
少なくとも、そのような「間に落ちる仕事」をやっている人を評価できる人間でありたいと僕は思っています。
(難しいかもしれませんが)ご賛同いただけたら幸いです。