「働かないおじさん」とどのように働くか?

Photo by Zhang Kenny on Unsplash

コスパが悪い「おじさん」たち

職場でイライラする原因の1つが「働かないのに高給である人がいる」ことである。

ここで言う「高給」というのは、絶対額が多いということに限らず、仕事量に対しての相対的な給与額が高いということも含まれる。

「なぜあの人があんなに貰っているのか?」という疑問はどの職場にもあるものだろう。

これは今に始まったことではなく、連綿と続いてきているものであるのは承知の上で、今回はこれについて書いていこうと思う。

「向上心を失くしてしまった人」=「おじさん」

最近思うのは、以前よりも「仕事量と給与額の差」が大きくなっているのではないか、ということだ。

それが目立つようになってしまっているのではないか、ということだ。

もう少し詳しく説明する。

40代・50代の「おじさん」社員を見ていて思うのは、彼らの学習意欲が極端に低い、ということだ。

そしてそれに対して自覚的でない、ということだ。

「昔取った杵柄」であれば良いのだけれど、変化の速いこの時代において、汎用性のない彼らの経験は殆ど役に立たない。

それは「たまたま」その時代において上手くいっただけで、現在には通用しないものであるのに、それをバージョンアップしようとはしない。

たちが悪いのは、この古びて錆びついた時代錯誤なやり方を他人にも強要しようとすることだ。

これは上位層だけでなく、平社員の「おじさん」でも見られる事象だ。

「オレの若い頃は…」という武勇伝を話し出す。

でも自分自身はそこから抜け出そうという努力は全くしない。

OSを取り換えることが不可能であるのであれば、少なくともアップデートはすべきだ。

未だにWindows95で勝負しようとしていることに対して、たぶん自覚すらないのだろう。

何も最先端の情勢についていくべきだということを言っているのではない。

何というか、節度というか、至らなさというか、不全感というか、そういうものを感じて欲しいだけだ。

そしてそれを埋め合わせるべく努力をして欲しいということだ。

もちろんその歳でも向上心のある人はたくさんいる。

だからここではそのような「向上心を失くしてしまった人」を「おじさん」と定義することにする。

できるだけ少ない労力で、できるだけ多く得ようとするのが「賢い」消費者だ

そういう意味では、若手でも中堅でも、もちろん女性でも、このような「おじさん」はたくさんいることになる。

こういう人達を抱えなければいけないから、日本企業の生産性は向上していかないのだろう。

時間軸を短く見てみれば、このような「おじさん」社員と、それ以外の社員に給料の差が出る訳でない。

それであれば、できるだけ少ない労力で給料を貰おう、というインセンティブが働くことにも頷ける。

コスパを上げよう、というのはこの消費社会においては当然の行為だ。

結果として、組織全体がこのような「おじさん」社員に引きずられる形で向上しようとしなくなる

向上しようがしまいが、給料が同じであれば、誰が苦痛を伴う努力をしようとするだろう?

外資系企業であれば、このような「おじさん」社員は早晩解雇されるだろう。

でも日系企業ではそう簡単に解雇はできない。

減給も難しい。

そんな中でマネージャーは仕事をしなければならない。

「大人たち」が去ってしまった社会で

これはとても難しい問題だと僕は思う。

組織内だけでなくて、社会全体がこのような状態になっているのだろう。

教養もスキルもなく、それを埋め合わせる努力もせず、精神的には未熟なまま大人になった人達が社会の大層を占めている。

そんな自分のことしか考えていない人達が溢れかえっている。

このような社会的劣化状況の中で、マネージャーは成果を上げなければならない。

これはマネージャー個人の努力でどうにかなる問題ではない。

その努力が報われる確率は限りなく0に近いし、そもそもその努力に気付ける人も殆どいないだろう。

「思い出補正」がかかっているのは承知の上で、僕が会社に入った頃はもう少しまともな大人がたくさんいたように思う。

言っていることは無茶苦茶ではあったけれど、度量があるというか、最後のケツは拭く、というような器の大きな人が、相当数いたような気がする。

そのような「大人たち」はどこに行ってしまったのだろう?

「大人」と「おじさん」を分かつもの

このような「大人」の社員たちも確かに給料は多かったはずであるが、現在ほどそのコスパが悪いような感じはなかったように思う。

それは「最後の責任は取る」という矜持があったからだし、裏側に根本的な教養や深みがあったからだと思う。

現在のような薄っぺらな「おじさん」達とは違う、凄みのようなものがあったからだと思う。

その凄みに気圧されながら、「この人の為なら身を削ってもいいか」という想いを持って僕は仕事人生のスタートを切ったように思う。

それは振り返ってみれば幸運だったのだろう。

翻って現在。

そのような大人たちはいなくなってしまった。

そういう意味では、「仕事量と給与額の差」というのは、「覚悟の差」と言い換えることができるのかもしれない。

もちろんここにはその覚悟をできるような「背景(バックグラウンド)の差」ということも含まれる。

そしてその「背景の差」を埋めようとする必要性を感じているかどうか、が「おじさん」と「大人」を分ける線になるのかもしれない。

少なくも僕はこのような無教養で向上心のない「おじさん」にならないように働いていきたいと思う。

年齢的な老いは仕方ないけれど、精神的に老いることのないようにいたいと思う。

それではまた。

いい仕事をしましょう。


あとがき

本文では少し辛辣になってしまいましたが、おじさんが「おじさん」になってしまうのは、「向上しても報われない」という社会的要因も関係していると僕は思っています。

そんな環境の中で頑張れるのは、マゾヒストだけでしょう。

インセンティブだけで人間の行動が決定される訳ではないのは承知の上で、そういう人達が「頑張ろう」と思えるような仕組みを僕らは考えていかなければならないような段階に来ているような気がしています。

労働というのは金銭だけでなく、尊厳や自己肯定感に繋がる重要なものですし、それが上手くワークしていないと、社会的な不安定感も増していきます。

「頑張ったら報われる」というシンプルな世界観を取り戻す。

すぐにマクロに行うことはできなくても、少なくとも手の届く範囲で僕はこれを実践していきたいと考えています。