逆パワハラにどう対処するか?
権威者が権威を行使しづらい社会環境
パワハラが叫ばれる今日において、管理職は相対的に弱い立場になってしまった。
何かというとハラスメント扱いをされてしまうので、そのまま放置しておくという、そうせざるを得ない、そういったマネージャーも多いのではないか。
これはなかなか難しい話で、学校における先生に対する問題(学級崩壊)等、権威がある側が権威があることが原因でその権威を行使しづらい社会環境というのが背景にあると思う。
生徒が面白がって、先生の指導(パワハラ的な)をYoutubeに上げる、なんてことも起こっていたりする。
社会の側もこういった事象への対処方法を模索している最中なので、結論めいたことは言えないけれど、現在時点で考えていることを書いていこうと思う。
権利よりも義務を多く負おうとするのが大人の定義
こういう議論の根本にあるのは、奪還の理路というか、「我々は虐げられている(きた)ので、それを取り返す権利がある」という観念であるように思う。
消費者的立場による権利の主張というか、「そのような権利を享受するのが当然だ」というような考え方が潜んでいるような気がしている。
権利は義務とセットであるはずなのに、権利の方が肥大化してしまっている。
部下は上司からのサポートを受けて「然るべき」で、生徒は教師からの援助を受けて「然るべき」で、それができないものは罰してもよい(むしろ社会的正義の為に罰すべきだ)、というような論調が強くなっているように感じている。
ここには「大人の不在」という問題が横たわっている。
「子供だけの社会」になってしまった悲哀がある。
上記の議論をなぞっていくのであれば、権利と義務の分量の内で、義務の方を多く負う、というのが大人の振る舞いであると僕は思っている。
本当は半分半分負うというのがバランスが取れているのだけれど、自分も子供の時には権利をたくさん取っていたので、その負債の感情に基づいて、今はその分義務を負わなきゃいけないよな、と考えられるのが大人だと僕は思っている。
「コスパが良い方がいい」「少ない手間でできるだけ多くのものを享受したい」という消費者的に「賢い」振る舞いが浸透しすぎた結果、皆が権利の方を多く欲しがってしまうという社会が現出してしまった。
その社会において、義務を多めに負うという行為は、ある種「愚かな」振る舞いとなる。
たぶん「自己責任論」的なものもここには含まれるのだろう。
そのような愚者を出し抜いて、賢しく生き抜いていく、それが成功者のモデルとなっている。
逆パワハラの構図
それは会社という組織においても当てはまる。
労働者である社員は、できるだけ少ない手間でできるだけ多くのものを得ようとするのが「賢い」振る舞いとなる。
その為には義務を強制してくるような上司は「排除」した方がよい。
義務というのはある種の権威が纏わりついているものなので、その権威性に対してハラスメントを主張すれば、その上司を排除することができる。
個人だけで難しければ、集団でそれを行えばよい。
かくして逆パワハラの構図が完成する。
「いじめ」が常態化する。
「子供たち」を相手にする必要はない
僕はパワハラは論外だと思っているけれど、過度に部下に配慮しすぎるのもどうなのか、と思っている。
人事権も解雇権もない状況下において、このような「子供たち」をどのように扱うか、という問題は、マネージャーの仕事の範疇ではないと僕は考えている。
もちろんマネージャーはマネージャーで、最大限そのチームを機能させるべく努力をすべきだと思う。
でもその「向こう側」までやる必要はない。
単純に人事的に処分すればよいだけだ。
それが難しいのであれば、自分の異動を求めるか、その会社自体から去ればよいだけだ。
逃げるみたいな形になってしまうけれど、僕はそれでいいと思っている。
「いじめ」に対して立ち向かったってろくなことはない。
さっさと環境を変えて、そこでパフォーマンスを発揮した方がいい。
そういう人達をマネジメントするのはマネージャーの仕事ではない。
それは人事や労務や経営の仕事だ。
そういう人達に任せよう。
そしてその際に不利にならないようにエビデンスをたくさん確保しておこう。
少なくともまともに仕事をしていれば(そしてそこがまともな会社であれば)、人事的に不利な事態になることはない。
というか、なったらなったでいい、くらいの心持で仕事をすればいい。
そんなことで自分のマネージャーとしての力量に対して悲観することはない。
そんな環境において結果を出すのは、誰にとっても不可能なことだからだ。
無理に頑張る必要はない。
そんなことで自分を壊してしまっては元も子もない。
同調圧力が充満した部屋の中で、子供たちと戯れ続けるのは不毛だ。
「移籍」をしよう。
どんなに一流のサッカー選手でも環境が合わなければ能力は発揮できない。
君に能力があれば、君を欲しいと思うチームがあるはずだ。
それではまた。
いい仕事をしましょう。
あとがき
たぶん少数派だとは思うのですが、僕は成果主義に対して悪感情を持っていません。
もちろん「成果」というものをどのように評価するのかという運用方法の困難性はあるとは思うのですが、ジョブディスクリプションに応じた成果によって、給与なり賞与なりが変動する(当然下落もありうる)というのは自然なことであると考えています。
ここにあるのはフェアネスという概念です。
賃金の下方硬直性を堅持したまま、働かない人達のしわ寄せを働いている人が(多めに)被っているのが現在であり、バランスの問題はあるとは思うものの、やや悪平等に寄ってしまっているのかなと感じています。
ジョブ型の給与体系やホワイトカラーエグゼンプションというのは、資本家側からの搾取的な側面があることは否めないとは思うものの、給与額も応分に上昇するのであれば、それは適正な格差であるようにも感じます。
サラリーマンにプロサッカー選手のような外部性が存在するというのは幻想に近いとは思うものの、奪還論ではなく対等な交渉相手として企業に向き合うのは必要なことであるとも思っています(副業然り、兼業然り)。
厳しい言い方になりますが、そんな中で甘やかされている人たちが束になって逆パワハラの主体になっているような気がしています。
解雇は難しくとも、減給が可能であれば、事態は少しは改善されるのではないか。
そんなマネージャー寄りのことを今回は書いてみました。
参考になるかは疑問ですが、議論の出発点になれば幸いです。