衆議は必ずしも良いものじゃない

最終的な決断はマネージャーが行うべき

新しいことを始める時、マネージャーは決断をしなければならない。

その判断材料を集めようと、部下を含め多くの関係者に話を聞こうとする。

たくさんの情報を集める

それ自体は悪いことではない。

でも最終的な「決断」はマネージャーが行うべきだ。

これが今回のテーマとなる。

決断は非民主的に

それはなぜか?

1つは、他人の意見は現在の延長線上にしかないから(跳躍がないから)。

もう1つは、他人の意見は結局は他人ごとに過ぎないからだ。

僕がよくやる手法の1つとして、ラフなアイディアを紙に落として、それを会議にかける前に若手に見せる、ということがある。

この段階では自分の中でも方針が固まっておらず、いわば「お試し」として反応を見ることになる。

若手の反応自体は正直言ってどうでもいいのだけれど、他者に見せることで、壁打ちをすることで、自分の中でエッセンスはどこなのかがわかってくるので、これをまず行う。

そして、中心となるアイディアをブラッシュアップさせた上で、会議にかける。

(僕のチームでは僕以外にアイディアを出すメンバーがいないので、仕方なくこんな形をとっている)

大抵メンバーは無反応だ。

良いのか悪いのかそれすらもわからないことが多いので、もう少し粘って反応を引き出す。

その中でぽろぽろと意見が出てくる。

でもそれは僕にとってはあくまでも参考程度に過ぎない。

もちろん良いと思うものについては取り入れるけれど、それを決めるのは僕自身だ。

これは考えている射程や時間軸がメンバーとは異なることが多いからだ。

残念ながら、メンバーが考えている影響の範囲は狭く、時間軸は短いことが多い。

そしてどちらかというと、表面的な事象に囚われがちだ。

条件反射的に、好きか、嫌いか、で判断することも多い。

そういう意味では、僕は民主的な方法で決断を行ってはいないと言えるのかもしれない。

多数決なんて概念は僕には全くない。

反対意見の方が多い場合であっても、最終的に良いと判断すればそれを実行する(もちろんある程度の修正は行うが)。

今日の延長線上に明日はない

ヘンリー・フォードではないけれど、メンバーの考える発想は現状の延長線上にあることが多い。

彼らは自動車ではなく、速く走る馬を求めがちだ。

現状を改良していくことは決して悪いことではないけれど、それでは跳躍は難しい

跳躍ができなければ、圧倒的な成果を残すことはできない。

そして跳躍は時に馬鹿げたものに見えてしまうものだ。

失礼な言い方にはなってしまうけれど、他人の意見というのは僕にとってはこの速い馬の細部についての議論になることが多い、と感じている。

もう少し細い方が、とか、足が長い方が、とか、そんな些末な話になることが多い。

でも僕がやりたいのは昨日の延長線上にあるものではない。

馬にエンジンを積んで、車輪をつけたらどうなるのか、そういう議論をしたいのだけれど、なかなかこんな話はできない。

だから、成功するかどうかわからない状態で僕は決断を行う。

それについて他人は好き勝手なことばかり言う。

自分事として捉えることもできないくせに、偉そうなことばかり言う。

破天荒な決断を自分で行う勇気もないくせに、賢者のように振舞う。

リスクを取らなければリターンはない

もちろん失敗もたくさんある。

でも自分で考え抜いた上の失敗であれば、それはとても有用だと僕は思う。

上手く言えないけれど、そういう失敗も込みで、マネージャーは成長をしていくのだと思う。

その小さなプロジェクトの繰り返しによって、責任を肌で感じることで、マネージャーの決断力は研ぎ澄まされていく。

リスクを取らなければリターンはない。

こんな簡単なこともわからないマネージャーが多すぎる。

たくさんの意見を取り入れたものは、確かにどこにも角が立たないけれど、丸みを帯びていて、何の影響も及ぼさない。

無味無臭、当たり障りのないもの、になってしまう。

僕は粗くても尖ったアイディアの方が好きだ。

失敗したとしてもその方が多くデータが取れるような気がしている。

ダイレクトにその影響がわかるような気がしている。

他人はあくまでも他人に過ぎない。

誰もその責任なんて取らない。

そんな人たちの意見など聞くに値しない。

ノイズの中から自分だけの音階を見つける

これは一歩間違えれば独裁的な話になりそうな話だけれど、僕の感覚は少し違う。

意見は聞く。

たくさん聞く。

でも最後の決断は自分で行う。

その責任も自分で負う。

シンプルだけれど、凄く大事なことだと思う。

たくさんのノイズから自分だけの音階を見つける。

それを自分なりに演奏してみる

拍手はまばらだ。

アレンジを加える。

嘲笑が起きる。

客は次々と帰っていく。

それでも諦めずに弾き続ける。

稀に神がかったフレーズが流れだす。

称賛の声が一部から起こる。

大勢の観客は急に手のひらを返す。

さも自分はその才能に初めから気付いていたかのように拍手喝采を送る。

それに対して皮肉っぽく微笑む。

頭の中には次の楽曲のアイディアが浮かんでいる。

その不協和音を僕は誰よりも楽しみにしている。

それではまた。

いい仕事をしましょう。


あとがき

多数決というのは素晴らしい決定方法のように見えますが、裏側には「責任の分散化」がついて回ります。

仮にプロジェクトが上手くいかなかった時に、「誰がケツを拭くのか」ということが明確になっていないと、誰もそのプロジェクトに対して真剣にならないし、次のプロジェクトにも活かすことができません。

このような責任を明確にしない「フワフワとした感じ」を日本社会は好みますが、それでは失敗はただの失敗となってしまいます。

その背景に「失敗したら再浮上が難しい」というシステムがあるのは承知の上で、僕は小さなリスクを取り続けることをお勧めします。

マネジメントもアジャイル的に行えば、大きな失敗にはなりません。

責任というリスクをヒリヒリ感じながら仕事をしていきましょう。