マネージャーとリーダー(マネジメントとリーダーシップ)

管理と官吏
「管理職から支援職へ」でも書いた通り、「マネージャー」という用語には「管理」というイメージがついて回る。
ビジネスや組織というある種散らかったものを整頓させて整然と物事を進行させていく、そのかじ取りをするのがマネージャーだ、という響きがその言葉からは感じられる。
同音異義になるが、この「管理」は「官吏」というように捉えるとわかりやすい。
官吏(官僚)はマニュアルに基づいて体系的に物事を処理していくことが重要だ。
イレギュラーがないように、入力と出力が常に等しくなるように運用するのがその役割となる。
これは官僚に対しての悪口ではない。
組織が一定規模になるとこういう人達がいなければ仕事が回っていかなくなってしまうので、ある種自然発生的なものだ。
良い悪いという判断軸ではなく、組織というのは「そういうもの」なのだ。
慣性の法則のように、組織が大きくなれば自然と管理をする要素が増えるし、管理をする要素が増えれば、それを処理する人が必要となる。
階層型組織をイメージしてもらえばわかりやすいが、この処理する人達の「節」となる部分にマネージャーがいる。
マネージャーは雑然とした物事を整え、一定の出力を出すことを求められる。
マネジメントという語にはそういう意味合いが初めから付帯している。
「管理」が最適でない時代におけるマネジメントとは?
これはある時代まではとても有用な管理手法であった。
バラバラな個々人を束ね、組織が向かっていく方向へ進ませる、それもできるだけよそ見をしないで、というのが昭和時代の、キャッチアップ型経済における最適解であった。
日本型組織は、このマネジメント手法によって大成功を収めた。
ジャパン・アズ・ナンバーワンという言葉にも現れるように、一度その頂点を極めようとした。
でも時代は変わり、ゴールは見えなくなった。
どちらが正解なのか、一丸となって向かっていく方向がわからなくなった。
それに合わせてマネジメント手法も変化が必要であるのに、僕たちはまだ過去の成功体験を捨てきれないでいる。
それが現在地だ。
支援とリーダーシップ
ここで必要となる概念の1つである「支援」については前掲のブログ内で記述した。
もう1つについて今回は書いていこうと思う。
それがリーダーシップだ。
支援という言葉には、サポートやフォローというような「後ろから集団を支えていく」感じが付帯している。
個人的にはここまで利他的にはなりきれないし、僕はサッカーが好きなので、ボランチ的にパスを散らす感じをイメージしながら仕事をしている。
しかしながら、今回のテーマはそれとは逆のリーダーシップという概念だ。
リーダーシップには「集団を導く」「先導する」ようなイメージが付帯する。
先程の支援という言葉とは逆に、先頭に立ってチームを引っ張っていく。
「でもそれって、さっき言っていた昭和時代のマネージャーと同じじゃないんですか?」という反論が聞こえてくる。
確かに似ている。
でもそれとはちょっと違うのではないか、と僕は考えている。
外的動機に基づくリーダーシップと内的動機に基づくリーダーシップ
昭和時代のリーダーシップは、官僚的な、上意下達的な意思に忠実に部下を動かしていく、というような、いわば「外部」にその動機がある。
僕が言いたいリーダーシップは、マネージャーの「内部」にその動機があって、その内なるものに基づいてチームを駆動させていく、という形のものだ。
先述したように、この現代においては、どこに向かっていくことが正しいのかがわからなくなった。
それはマネージャーも同様だ。
でもそんな時代においても、マネージャー自身がやってみたいという熱情のようなもの、好奇心のようなものはとても重要だと思う。
組織内においてその情熱はある種規律を乱す邪魔なものであるけれど、それでも抑えられないもの、それをチーム単位で実践していく。
その「はみ出し」にマネジメントの面白さがある。
もちろんチームのメンバーがそれに共感してくれる可能性はとても低い。
でもマネージャーが一人でその好奇心に基づく仕事を面白がってやっていると、チーム内の1人くらいは、顔をのぞかせてきたりする。
この1人目がとても重要だ。
この第1フォロワーと一緒になって、マネージャーは新しいこと(面白いこと)をやり続ける。
別に組織に阿るわけではない。
ただ自分が面白いと思っているからやっているだけだ。
そんなことをやっていると、偶然小さな成果が出たりする。
また1人フォロワーが増える。
いつしかチーム全体がフォロワーになっている。
ここにリーダーシップが発生する。
それは他者顕示的なものでなく、その場に自然発生的に生じるものだ。
打倒「フェスティバル実行委員会」!
奇異な目で見られながら踊り続けるマネージャー。
別に理解されたいなんて思っていない。
ただ「踊りたいから」踊るのだ。
このままの官僚的な仕事だけしていたら、息が詰まりそうだから、踊るのだ。
そこに加わるおかしな1人目のフォロワー。
2人でおかしなことをやり続ける。
バカ騒ぎを続ける。
それがいつしか大きなフェスティバルになる。
これがリーダーシップの正体だ。
そのうちにその祭りを仕切ろうとする人たち(フェスティバル実行委員)が現れてくる。
これが官僚たちだ。
ただ面白くてやっていたはずなのに、いつしか「踊り方はこうじゃなくちゃいけない」「何時から何時までがフェスティバルで、それ以外は踊っちゃだめだ」なんてことを言い出す。
僕たちの踊り方が「正当じゃない」なんて批判したりする。
これを上手にできる人が「マネージャー」と呼ばれる。
僕はマネージャーであるけれど、リーダーとしての感性も持っていたいと思う。
その両方のバランスを取りながら仕事をしたいと思う。
道化だけでも官僚だけでも組織は上手く回らない。
心を殺さないまま、組織の中で生き抜いていきたいと思う。
それではまた。
いい仕事をしましょう。
あとがき
「お役所仕事」と他人に対して悪口を言っている自分でも、マネージャー業務を忠実に遂行することが続くと、いつしか自分もこのような形で働いていること気付いて、愕然とすることがあります。
工場的なアプローチ、入力と出力が一定している、というのは、単体では決して悪いことではありませんし、マネジメントというのはある種「そういう性質」を帯びているものであるので、「慣性の法則」に従ってそのような方向に進んでしまう、というのもある種やむを得ないのかなあと僕は思っています。
しかし、です。
それだけでは現代において通用するマネージャーにはなれません。
「アート思考」ではありませんが、そのような定型作業をぶち壊すような「はみ出し」が現代のマネジメントには必要です。
そしてそれは自分の内側から湧き出るものでなければならない。
難しいことを言っていることは承知の上で、僕はこんな風に考えています。