思ったよりも数字が伸びないなら、日頃の行いを振り返ってみた方がいいかもしれない
言語と行動で重要なのは「行動」だ
このブログ内では、マネジメントには「言行一致」が重要だと言い続けてきた。
それは言行「不」一致が人の信頼感を損ねる一番の要因だと考えるからだ。
僕たち人間は知らず知らずのうちに、様々なメッセージを他者に送っている。
大別すると、それは「言語によるもの」と、「行動によるもの」に分けられる。
この2つのメッセージが異なるほど、乖離が大きいほど、信頼感は損なわれていく。
そしてより重要なのは「行動によるもの」だ。
このことを理解していないマネージャーはとても多い。
将来の弱い自分ができないようなことは言わない方が良い
多くの人は言語によって意図を理解すると思っている。
言語の方に重きを置くと考えている。
だがそれは間違いだ。
真意というのは行動に帯びるのだ。
だからこそ、行動が言動と一致しないのであれば、一致させる勇気がないのであれば、言わない方がマシ、ということになるのだ。
順番付けをするとするなら、有言実行が最上で、次が不言実行、最後が有言不実行となる。
しかしながらここで問題になってくるのは、マネージャーという職業においては、思っていないことも言わなければならないという局面があるということだ。
例えば組織からの無理な指示というような形でこれが現れる。
その時に、多くのマネージャーはこれを咀嚼しないまま、「綺麗な言葉」で話す。
さも自分も心からその指示内容を支持しているかのように話す。
これはNGだ。
もちろんその指示通りに行動できるという自信があるのであれば良いけれど、それができないのであれば(というか、念頭に置いている指示がどうやってもできない内容であるのだけれど)、その言葉を何とかして自分の言葉に置き換えなければならない。
将来の弱い自分でも実行できるような内容に換言しなければならない。
そして自分で言ったことには責任を持つ。
とても簡単だ。
本音と建前の乖離と責任という概念の消失
だが、多くのマネージャーはそれができない。
ここには時代背景の変化というものがある。
昭和時代であれば、「それはそれ」「本音と建前」というものをマネージャーも部下も理解していた。
暗黙の了解というか、言語下の意味というか、腹芸というか、阿吽の呼吸というか、そういうものが両者の間に成り立っていた。
部下側からしてみれば、マネージャーがそう言っているのはあくまでも建前であり、本心は別のところにある、そして会社としてはそれをやらなければならないんだな、ということがわかっていたので、それについてどうこう言う必要がなかった。
言行不一致でも、「組織というのはそういうものだ」という了解があった。
ここで重要なのは「責任」という概念だ。
昭和時代においては、仮にその建前が失敗した場合でも組織なり上司が責任を感じていた。
少なくとも全責任が部下に押し付けられるようなことはなかった。
その自責感が共有されていたからこそ、部下も無理難題を上司と一緒に取り組むことができたのだ。
だが時代は変わり、自責感は消え去ってしまった。
失敗は全て部下のせいとして押し付けられるようになった。
部下としてはこれではやっていられないから、「言質」というものを重要視するようになった。
自己防衛をする為に、建前を「言質」とするようになっていった。
結果として、「言わなくても理解してもらえる」「善意で解釈されるだろう」という観念は通用しなくなった。
言葉を言葉として、字面通りに受け取られる可能性があるものとして運用する、というリスクヘッジ的な話法が一般化するようになった。
かくして、「本音」と「建前」は乖離の幅を広げる。
「文脈」は消滅する。
でも昭和時代のマネージャー気分が抜けないマネージャーたちは、このことを理解していない。
言動と行動が違って当たり前(組織というのはそういうものだ)、という価値観が捨てきれない。
だからマネージャー自身の言葉はどんどんと軽くなり、お題目化する。
一方で行動は伴わない。
このような状態では数字が上がるはずもない。
本音が求められている時代における発言内容とは?
これを防ぐには、自分の「日頃の行い」を点検するしかない。
アンビバレントなメッセージを送っていないか日々チェックするしかない。
言葉は言葉として受け取られること(文脈無視)を理解し、そのリスクを理解して、発言を行うようにする。
これが責任者不在という現在において重要な概念だ。
誰もが責任を押し付け合う環境において、責任逃ればかり考えている時代において、部下達は何よりも「本音」を求めていると僕は思う。
できるだけシンプルでわかりやすい言葉を使う。
その言葉に沿うような行動を心掛ける。
無理なことは無理と言う。
これが現代のマネジメントでは重要だ。
縮小均衡と拡大均衡
多義的だとか、ダブルミーニングだとか、文脈だとか、そういう言語的な豊かさというものを理解できる人は圧倒的に少ない、と思ってマネジメントを行うしかない。
人間は単純で、マシンのように入力と出力が一定している、その方が望ましい、わかりやすい、というのが当世流だ。
これは部下に限った話ではない。
対上司でも同じことだ。
行動を伴うことができるようなことだけを発言する。
とてもつまらない世界だ。
縮小均衡的な世界観だ。
でも厳然たる事実なのだから仕方がない。
大言壮語も受け止められるような、そんな度量の広い世界はなくなってしまった。
本来は言動に合わせた拡大均衡的なマネジメントを行いたい。
でもそれは現在においては不可能だ。
つまらない結論になってしまった。
予定とは違うゴールに辿り着いてしまった。
次はもう少し明るい話をしようと思う。
それではまた。
いい仕事をしましょう。
あとがき
インターネットの発展によるものかどうかは定かではありませんが、文章の奥行を理解できる人が世代を問わず少なくなっている印象があります。
現代には短くシンプルな文意(でも平板な)が溢れています。
それはデジタルな世界観(0か1か)においては有用なものだと思います。
でも僕らは悲しいかなアナログな動物です。
いつの日か感情すらもデジタル化されるのかもしれませんが、その日までは言語を感情に合わせてアナログ的に運用する必要があるような気がしています。
上手く言えないのですが、明らかな建前を本当に「ガチ」だと思って発言してしまう危うさ(たぶん自己懐疑的な発想がないのでしょう)と、その発言からあまりにも乖離した行動のリスクを、多くのマネージャーは意識していないように見受けられます。
自分の「日頃の行い」を振り返り、行動していきましょう。