麗しきセクショナリズムとその活用法
あなたは味方? それとも敵?
セクショナリズムは人間の性だ。
太古の昔から、人間は敵と味方を分けることで、身内の結束を高めてきた。
あなたは味方、彼らは敵。
同じ釜の飯を食う仲間。
そうじゃないあいつら。
それはもう本能みたいなもので、人が集まれば避けることができない。
会社という単位だけじゃなくて、どんな所にもセクショナリズムは存在する。
学校、いじめ、ママ友、サークル、宗派、政党、それこそ国レベルでも、僕たちはそんなことをやってばかりだ。
お前はどっちの味方なのだ?
言外に日々問い続けられている。
ある種のカルト。
それがセクショナリズムだ。
セクショナリズムをデフォルトとして話を進めていく
僕たちは互いの臭いをかぎ合って、相手がどのような価値観を持つものなのか、どのような組織に所属するものなのか、その思想はどのようなものなのか、判別し続けている。
そして相手が敵だとわかると、高い壁を作り、城壁の内側から石を投げ続ける。
味方を守る為に。
自分を守る為に。
確かに疲れることばかりだ。
でも人が集まる以上、セクショナリズムは避けられないものだ。
それをデフォルトとして議論を進めることなくして、建設的なものは生まれ得ない。
なくそうとしたって、なくなるものじゃない。
うんざりしながら、今日はこんなテーマで話をしていこう。
虎の威を借りる狐
虎の威を借りる狐ではないけれど、僕たちは自分を守る為に、大きなものの力を借りようとする。
裏側には組織がついているんだぞ、という威嚇を日々続けることで、相手よりも優位に立とうとする。
そうやって、責任を回避しながら、リターンを得ようとする。
何かコトが及びそうになると、「それは私の仕事ではない」と平気で言う。
単純に自分を守っているだけなのだけれど、あたかも組織を守っているかのように振舞ったりする。
正義を気取って。
ヒーローを装って。
揚げ足を取られない為だけの言葉
そこで交わされる言葉は、表面をなぞるような、ツルツルとしたものだ。
上っ面の、「正しい」言葉たち。
体温0。
揚げ足を取られない為だけの言葉。
僕たちはそれを交わし合う。
そうやって、仕事をしている(ふりをし続ける)。
内側の論理を守る為に。
城壁の中の麗しき平和。
麗しきセクショナリズム。
仲間の範囲を広げることでセクショナリズムを打開する
それを打開する為には?
セクショナリズムが避けられない中で、セクショナリズムを打開する方法とは?
僕の考えはこうだ。
その範囲を広げる、それしかない。
もちろん人間が仲間だと認識する範囲には限界がある(ダンバー数的な概念)。
クラスの人数みたいに。
スポーツチームの登録選手数のように。
その外側には敵しかいない。
それは確かだ。
でも、その向こうに更に大きな敵がいるという概念をもつこと。
外側の外側に更に大きくて凶悪な敵がいるという概念。
それがセクショナリズムを打開する。
僕はそう考えている。
エイリアンが襲撃してきたら?
例えが適切かわからないけれど、エイリアンが襲撃してきたら、いつもは争っている国同士でさえ手を結ぶだろう。
戦争になれば、互いに争っている隣人とも助け合うだろう。
そのような概念を縮小していくと、組織内のセクショナリズムも緩和することができるのではないか、と僕は考えている。
タコつぼの中から出ることができる。
井の中の蛙を卒業できる。
例えば、チーム内のメンバー同士のいがみ合い。
チーム同士の対立。
ある部署と他部署のケンカ。
そんなものは矮小化されていく。
横にいるメンバーに勝つこと、横にあるチームに勝つこと、横に存在する部署に勝つこと、そんなものは無意味になる。
進撃の巨人が来て、僕たちの城壁をぶっ壊す時、仲間内のいがみ合いなど無価値だ。
外側にいる強大な仮想敵をイメージさせる
マネージャーの仕事は内側へ向かう意識と外側へ広がる意識のバランスをうまくとることだ。
求心力と遠心力。
結束力を高めなければチームに力は生じない。
でもそれが行き過ぎると、メンバー間の些細な差異の違い、小さな承認欲求を満たすためだけの行動が目に付くようになる。
マウンティングとマウンティング返しの繰り返し。
一方で、外ばかり向いてしまうと、チームで働いている意味が薄れていく。
それぞれがそれぞれ勝手に動いてしまう。
1+1が2にしかならない。
それもまた問題だ。
だからそのバランスを取っていく。
上手にセクショナリズムを活用していく。
外側にいる強大な仮想敵。
それを具体的にイメージさせられるかどうか。
こんなことを言っている場合じゃないと思わせられるかどうか。
それがマネジメントを強化していく。
セクショナリズムを超える為に
確かに簡単なことじゃない。
僕だって日々セクショナリズムの高い壁に阻まれて、うんざりしてばかりだ。
体温のない言葉に傷つけられてばかりだ。
そして反面、それを利用して、チームの結束を高めようとしてしまうことがあるのも事実だ。
でもそれではきっとダメなのだ。
僕もセクショナリズムのくびきに囚われてしまっているだけになってしまうから。
大きなものを想像すること。
俯瞰して物事を眺めること。
僕らの対立など取るに足りないものなのだ、と相手にも想像させられること。
それが本当のマネジメント力だ。
まだまだ程遠い道のり。
それでも一歩ずつ進んでいけたらと思っている。
それではまた。
いい仕事をしましょう。
あとがき
セクショナリズムを避ける為に効果的なのは、1人称を使うことです。
日本語は主語を使わなくても通用してしまう便利な言語であるので、無意識に人称を省略してしまうのですが、この省略をすることによって、暗に自分は組織に属している人間であるということを示してしまうように僕は思っています。
それを防ぐためには、「私はこう思う」というような物言いを意識的に行うことが重要です。
もちろん立場として組織の言い分を代弁しなければならない局面というのはありますが、そういった場合においても、組織の言うべきことを言い終えた後に、「私はこう思う」ということを付け加えることで、相手との距離を大きく詰めることができます。
それぞれの人にはそれぞれの立場があるのは当たり前です。
でもその間に橋を架ける為には一歩ずつ歩み寄らなければなりません。
意識的にポジションを取っていきましょう。