ダイバーシティとオーダーメイド
留保条件付き賛成
ダイバーシティと聞くと、多様性を尊重しなければならない、様々な人を活用しなければならない、という上から目線の教科書的な響きを何となく感じてしまう。
ポリティカルコレクトネスであるとか、LGBTQであるとか、思想的には僕は全面的に賛成なのだけれど、「~しなければならない」的に言われてしまうと、「うーん…確かにそうなんだけれどね…」、と「…」の部分、留保が付いてしまうのが実態である。
多くの人は僕とは違って、そのままの意味で、まるっと受け入れられるのかもしれない。
でも、(偏屈な)僕からすると、何となく「偉そう(教条的)」に聞こえてしまうのである。
それよりは「オーダーメイド」という言葉の方が僕にはしっくりくる。
それは矢印の方向性の違いによるものだと思う。
ダイバーシティというのが向こうから来るのに対して、オーダーメイドはこちらから行くようなイメージ。
多様性というのは無理やり作り上げるものではなく、そこにいる人たちがもう既に多様であり、その個性を上手に拾い上げていくことこそ重要なのではないか?
今日はそんなことを書いていく。
(書き手である僕が、「男性・日本人・正社員」という立場にあるので、日本社会におけるある種の人達にとって、今日の話というのは「もう既に特権的な立場を手にしている人にはわかるはずがない」というように捉えられてしまうだろうことはよくわかっているつもりである。そのくらいこういう話をフラットな立場で話すのは難しい。フラットであると思っているのは僕だけで、そうじゃないと言われた時に、言葉を返す手段すら持たせてもらえないからだ)
概念の標準化
まず前提として、「現状の日本社会は多様性に乏しい」と僕は思っている。
なので、それを多様化していこうという方向性(ダイバーシティ)に対しては、「その通りだよね」というスタンスである。
ただ、その際に思うのが、「ダイバーシティという概念自体が標準化されてしまっているのではないか?」ということである。
意味が分かりづらいかもしれないので、もう少し詳しく書いていく。
おじさん達を排除しよう
「現状の日本社会においては、無理やりにでも多様性を推進していくくらいでなければ、多様化は進まない」
それはその通りだと思う。
それくらい日本社会は「同質的」であって、それに対して僕は全く良いと思っていない。
実力も能力もない「おじさん達(ここに僕も含まれる)」が偉そうに能書きたれて、同じようなことを言っているのには、はっきり言って虫唾が走るくらいである。
そういう人達を入れ替えて、本当に実力や能力がある人を活用すべきである、と心から思っている。
ただし、である。
そこには「標準化の思想」が紛れ込んでいるような気がするのだ。
標準化の思想
「標準化の思想」というのは、「その場ごとの違いをあまり考えず、一律にそうすべきである、そうすれば必ずよくなる(よくなるはずだ)」という考え方のことをここでは指す。
大きな流れ、というか。
大枠では間違っていないし、そのくらい切羽詰まった状況であることは理解しているつもりである。
でもね、というのが今日の話である。
男性的思想を持った女性管理職を増やすことを多様性と呼んでいいのか?
例えば女性の管理職を増やしましょう、という考え方がある。
それは僕もその通りだと思う。
でも、その結果増えた女性管理職が余りにも男性管理職と似た思想であることに僕は驚くことが多い。
それは多様性なのだろうか?
確かに性別という意味では多様化していると言えるのかもしれない。
ただ考え方や価値観みたいなものは大して変わっていない。
「これをダイバーシティと呼んでいいのだろうか?」と僕は思うのだ。
結局同じなのでは?
もちろん、それだって何もしないよりはマシなのではないか?
それはそう思う。
でもだからと言って、「これこそがダイバーシティだ」であるとか「ウチは多様性を尊重している会社である」とかのたまうのは、ちょっと違うように感じるのだ。
僕が思うダイバーシティというのは、そういった形式要件を満たすだけではなく、もう少しその人の個性なり価値観を活かすようなイメージなのである。
男性的価値観を内包した女性管理職を増やすことも悪いことではないけれど、もっと別の方向性、明らかに違う考え方を持った女性管理職を増やした方が良いよね(というか、そういう人を探したらたまたま女性の方が多かったという方が望ましい)、ということである。
そしてその為には、管理職というものに対する概念自体を変えていかなければならないのだと思っている。
少なくともサッカーはもうポジションという思想は古いものになっているぜ?
ここにも「標準化の思想」がある。
「管理職はかくあるべきだ」という考え方に合う人をそこに当てはめようとするから、似たような人しか集まらなくなるのだ。
そうではなく、「この人の個性を活かす為には管理職というものはどのようにならなければならないのか」という考え方の方が望ましいのではないか、と僕は思っている。
ポジションに合う選手を見つけるのではなく、選手に合った役割を見つけるというイメージ。
フォーメーションが決まっているのではなく、その時々に合わせて可変していくようなイメージ。
僕はそれこそが本当のダイバーシティなのではないかと思っている。
大きな枠組みすらも変えてしまうこと。
それがたぶん本当は必要なのだろう(難しいことは重々わかっているつもりだ)。
それではまた。
いい仕事をしましょう。
あとがき
僕たちはきっと多様性のある世界を本当は望んでなどいないのだ。
こんなことを言うと総スカンを食いそうですが、現状の同質的な世界を眺めていると、僕はそんなことを思ってしまいます。
だって、本当に多様化したら面倒くさいでしょ?
全てを一から擦り合わせていくなんて労力がかかりそうでしょ?
だから何だかんだ言って似たような人ばかりが群れているんでしょ?
僕はヘンテコな人が好きです。
ヘンテコな人が言う、ヘンテコなことを聞くのが僕は好きです。
そこにはきっと、性別がどうとか、人種がどうとか、出自がどうとか、あまり関係がないような気がしています。
そのような要件を満たしていたって、同じ考え方では何も面白くない。
でも現状は同じ人ばかり。
それを変えませんか?
既にそこにいる人達だって、本当は十分に個性的ではありませんか?
賛同を頂くのは難しそうですが、懲りずにまた読んで頂けたら幸いです。