無謬性の原則と日本社会
失敗することを想定したり議論してはいけない病気
「無謬性の原則」という言葉がある。
これは「ある政策やプロジェクトを成功させる責任を負った当事者の組織は、その政策やプロジェクトが失敗した時を想定したり、議論したりしてはいけないとする信念」のことを指す。
その結果が「想定外」という事象の頻発である。
そりゃそうなのだ、そもそも想定することが許されていないのだから。
僕はこれを民族的宿痾だと思っている。
でも、だからと言って、「じゃあ仕方ないよね(てへぺろ)」で済ませる話ではなくて、これを何とかして超克したいと思うのである。
最悪の事態を想定することは悪いことではない、という価値観を醸成すること。
それはどのように実現できるのか?
今日はそんなことを書いてみようと思う。
プロパガンダみたいな言葉たち
敗戦も原発事故もコロナ対策も、「無謬性の原則」が関係している、と言ったら大袈裟になるだろうか。
そうでもないのではないか、と僕は考えている。
結論は変わらなかったとしても、被害度合いはもう少しマイルドにできたのではないか、というのが僕の考えである。
これは企業においても同様である。
失敗を想定することはあってはならないことである、という空気が会議室には充満している。
その言葉を口にすること自体が、「軟弱者」というレッテルを貼られる材料となる。
「そんな気持ちだから成功しないのだ!」という、戦争中のプロパガンダみたいな言葉が未だに日本社会には残っている。
精神は肉体を凌駕する。
根性があれば、戦車さえも打ち破れる。
きっとそうなのだろう。
でも、それはもう、昭和で終わりにしないか?
僕はそんな風に考えている。
大言壮語とやりっぱなし
「失敗を恐れるな!」と上司は言う。
「何でもやってみろよ!」と大物感を装う。
でも、彼ら(彼女ら)が失敗の責任を取ることは決してない。
もちろん、事前に失敗の想定をすることもないし、事後に失敗の検証をすることもない。
僕たちの仕事はやりっぱなし。
終わったことはなかったことにされる。
もう名前も覚えていない「誰か」の責任にされて。
科学的思考法で日本を令和仕様に
これをやめたいと僕は思っている。
そしてそれこそが日本社会を令和仕様にアップデートすることに繋がると考えている。
それには「科学的思考法」が必要である。
科学的思考法?
別に難しいことではない。
仮説を立て、それに基づいて実験を行い、効果を検証する。
それだけのことだ。
そして次の仮説を立て、実験を行い、更なる効果を検証する。
そうやって前に進んでいくのだ。
カイゼンは得意。そうだろう?
これはアジャイルと言い換えてもいいし、ディープラーニングと言い換えてもいい。
β版をアップデートしていくなんて言葉でもいい。
とにかく、一つのものをなかったことにしないで、それを踏み台にして次に進む、そういう思考方法が必要なのだ。
もし僕たちの民族的宿痾が「無謬性の原則」だとするなら、事前に最悪の事態を想定することはできないのかもしれない。
でも、それを踏まえて、次に進むことはできるはずなのだ。
トヨタの「カイゼン」ではないけれど、実際に僕たちは何かをアップデートすることには長けているはずなのである。
その長所をただ活かせばいい。
失敗を糧にすることはできるはず
もちろん本来的には事前に失敗の想定をしておくべきであり、対応策も用意しておくべきである。
でも、それは「べき論」であって、すぐに実現できる可能性は低いもののように僕には思える。
目指すべき方向ではあるけれど、「明日からそうしよう!」と変えられるくらい簡単なものではないように考えている(だからこそ民族的宿痾なのだろう)。
だから、せめて、「その失敗は踏まえましょう?」というのが僕からの提言である。
失敗=データ取得
僕は失敗を「データ取得」だと考えている。
これは営業マネージャーとしていつも言っていることでもある。
営業というのは、基本失敗がベースである。
100件アプローチしたとしても、97件は失敗であるのが普通なのだ。
そういう意味では僕は失敗に慣れている。
そしてそれをアップデートしていくことに慣れているのだ。
綺麗な空気の気配が僕たちを委縮させている
若い世代を中心に、失敗することを恐れる人達はますます増えているように感じる。
それは大人たちが「無謬性の原則」に囚われて、失敗した人達を排除していった結果生まれたものだと思っている。
クリーンなものだけが社会には残っているように見せて、その他のものは監獄に送り蓋をする。
その気配が僕たちをシュリンクさせている。
それをやめないか?
データの池へ投げ込む
失敗という考え方をやめて、ただ「データを取る」と考える。
それをデータの池(データレイク)に投げ込む。
それを構造化(データウェアハウス化)する。
それを元に次のデータ取得を行う。
こういう概念に変える。
それが今日からできることだ。
そうやって社会をディープラーニング化していく。
想定はできない。でも…
それは昔から僕たちが「カイゼン」と呼んできたものをただ今風に言い換えただけに過ぎない。
そしてそれは僕たちの長所でもあるのだ。
「失敗の想定ができない僕たち」を変えることは難しい。
でもそのままの状態で突き進んでいって「大きく失敗」するのではなく、「小さな失敗」に分割し、それをアップデートし続けることで対応することはできるのではないかと僕は思っている。
失敗を前向きなものにはできなくても、ただの無味無臭のデータに変えることはできる。
僕はそんなことを考えて今日も仕事をしている。
それではまた。
いい仕事をしましょう。
あとがき
本文はいつも通り拙い文章ではありますが、「想定は不得手でも改善は得意」という気付きがあったのは個人的には大きな収穫でした。
改善を行い続けることで、想定できないという弱点を補っていく。
それが現実的な解なのかなと思っています。
営業でもそうなのですが、失敗することを考えると「悲観的だ」と批難されます。
でもそう言う人に限って、実際に失敗する訳です(反対に僕はあまり失敗しません)。
これは想像力の射程の問題で、事前にパターンを用意しておくことはとても有用だと思うのですが、なかなかそうはならないようです。
今すぐ大きく現実が変わるとは思えないので、当面は失敗というデータを採取しながら、少しずつアップデートしていきましょう。