社会人たるもの、たるものたるもの

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冠詞をつけて話す人ばかり

べき論にうんざりしている。

それは何も今に始まったことではなくて、入社してからずっとそうなのだけれど、令和の時代になっても「社会人たるもの…」という冠詞をつけて話す人が多くて参ってしまう。

そしてこれは年配の人だけでなく、若い人にもいるから尚更である。

僕はこの種の「エセプロセス主義」みたいなものを毛嫌いしていて、成果に焦点を当てた世界に早く移行しないかなと常に思っている。

でも残念ながらその気配はないようである。

今日はそんな陰鬱な話をしていく。

苦痛を耐えなければまともな大人になれない?

社会人たるもの、上司や先輩は敬わなければならない。

社会人たるもの、仕事中に私語をするなんて言語道断だ。

社会人たるもの、若手は率先して雑用をすべきである。

などなど、「たるもの妖怪」が日本社会にはたくさん存在している。

全体的な傾向として、「今ある苦痛を耐えなければまともな大人になれない」みたいな思想が底流にあって、「困難を耐えてこそ精神が鍛えられて成長できるのだ」と疑いもなく思っているように僕には見える。

でも、その言っている当人が素晴らしい大人であるかというと、そんなこともない。

そして、その矛盾には無自覚である。

この辺が僕にはずっとよくわからないままである。

実力のない人ほど変なこだわりがある

部活時代もそうであったけれど、大抵実力のない先輩ほど、この種のことにこだわりがあるものである。

もうそういうのやめにしませんか?

というのが僕からの提言である。

良いとは言えないけど、まだマシなのでは?

僕は昔から仕事は「成果を出してナンボ」であると思っている。

敬語が使えなかろうが、上司をぞんざいに扱おうが、先輩に嫌われようが、成果を出したものを評価すべきである、と僕は思っている。

「じゃあ、何か? お前はそのようなチームワークを乱すヤツを歓迎するというのか?」

という反論が聞こえてくる。

それに対する答えは、「まあ、そうですね。まだその方がマシなのでは?」というものになる。

これは表現が難しいのだけれど、上記のような「たるもの検定における点数が低い人」がいるとして、その人が周囲に嫌われていようと、成果を上げ続けられるのであれば、その方がいいのではないか、と僕は思っている。

一方で、日本社会においては、この種の人は排除されがちで、成果を上げづらい方向に追いやられてしまう。

あいつは生意気だとか、スタンドプレーが過ぎるとか、理由をつけられて。

でも、その結果が日本全体の低生産性に繋がっている、ということにはきちんと自覚的であるべきだと思うのだ。

負の部分はどのように考えるのですか?

社内において、とか、国内において、とか、その中での相対的優位性なんてものは、ゴミクズに過ぎない。

そうやって内輪の論理を30年以上も続けてきた結果がこの体たらくなのである。

「それについてはどのように考えるのですか?」ということは問いたいと思う。

成功していると思っているのか。そうかそうか。

数々の議論の中でいつも疑問に思うのは、「現在が成功している」という信憑の上に「たるもの論」が成り立っているという自覚がないこと、である。

「成功していない現在」を棚上げして、「社会人たるもの」と言われても、僕にはイマイチピンと来ないのだけれど、そのように思う人はあまり多くないようである。

たぶん彼ら(彼女ら)は現在が成功していると思っているのだろう。

そしてその要因が「たるもの主義」から来ているのだと思っているのだろう。

きっといつまでも僕たちは分かり合えない。

なので、こちらには構わないでくれないか?

相互不可侵で行かないか?

外野は黙っていろ

「たるもの妖怪」たちは、関係ない僕たちの領域まで土足で踏み込んでくる。

僕のチームのことについて、別のチームのやつ(ほど)がとやかく言ってくるのである。

「ほっといてくれないか?」といつも思う。

和を乱すヤツがいても、生意気なヤツがいても、チームとして成果が上がっているのであれば、それでいいのではないだろうか?

もちろん限度はある。

でもそれは僕らのチームの中で解決すればいいことで、それ以外のヤツには関係ないことではないだろうか?

結果で勝負しよう?

無駄なことをやめること、合理的でないことを排除すること、を僕は歓迎する。

それは人間関係をドライにすることに繋がるけれど、それでいいのではないだろうか?

職場というのは仕事をする場であって、大事なのは何よりも成果を上げることである。

もちろん成果を上げる為に、上記した「たるもの論」が有効なら、大いにやればいい。

その結果で勝負しよう、と僕はいつも思うのだ。

感情とべき論は大きく異なる

これも理解されないのだけれど、「オレは嫌い」「だからお前はそうじゃなくすべきだ」ということを同義だと思っている人が多すぎるように感じている。

「オレは嫌い」は自身の感情なのでいい。

でもそこから「お前の行動が間違っているから、それを正すべきだ」までは、かなりの距離がある。

相手には相手の論理があるからである。

嫌われるリスクを負えよ

更に言うと、それを正す為に、「オレは嫌い」ということを表明するのではなく、「社会人たるもの」という規範を持ち出す狡さに僕は参ってしまう。

嫌いなら嫌いと言えよ。

それを表明することよるリスク(嫌われるリスク)を負えよ。

「社会人たるもの」を盾にするなよ。

僕はそう考えるのだ。

何だか愚痴めいた話になってしまった。

それではまた。

いい仕事をしましょう。


あとがき

嫌われるリスクを負わずに、規範を持ち出してくる人はとても多いです。

そしてその規範も時代適合的でない。

もっと言うと、その人自身が魅力的では全然ない。

そういう状態が仕事をよりつまらないものにしているような気がします。

「相手に何かを押し付けるなら、返り血を浴びる覚悟を持つべきだ」と僕は思うのですが、そうは思わない人が大半のようです。

どうか相互不可侵でお願い致します。