優秀なマネージャーなんていない(から大丈夫)
現在マネージャーをやっている人にだって、優秀な人は殆どいない
新しくマネージャーに昇格した人から「私なんかに課長が務まるんでしょうか?」という相談を頂いた。
僕の答えは、「いやいや、全然問題ないよ。優秀なマネージャーなんていないんだから」というものである。
これは言葉の通りで、現在マネージャーをやっている人にだって、優秀な人は殆どいないのだから申し訳なく思う必要はない、という意味である。
外資系企業のことはわからないけれど、日系企業にいるマネージャーの殆どは「たまたま」マネージャーになっただけのことであって、プロフェッショナルとしてマネジメントをやっている人は皆無と言っていいくらいの状況である、と僕は思っている(僕も含めて)。
なので、新任だろうが、経験者であろうが、大差はない。
でも、その状態が望ましい訳ではなくて、本来的には大きな差があるべきである。
今日はそんなことを書いてみる。
マイクロマネージャー=優秀なマネージャー?
日本におけるマネージャーの典型的なスタイルは、マイクロマネジメントである。
これは本人が望んでいるかどうかは分からないけれど、少なくとも組織としてはそのようなタイプのマネージャーを求めているように僕には思われる。
大事なのは、「管理をしている」という事実そのものであって、その「管理の目の細かさ度合い」を優秀さの指標としているのである。
もう少し大雑把に言うと、上記のようなマイクロマネジメントを通じて部下を追い詰め、追い詰められた部下が必死になって成果を上げようと努力する、それができない奴は退職させる、これが日本における「優秀な」マネージャーである。
あなたはそうなりたいだろうか?
僕はまっぴらごめんである。
体育会系信仰
日本には体育会系信仰とも言うべき文化が根強く残っていて、マネージャーもそのイメージから逃れることはできない。
この種の体育会系信仰が日本における大きな問題であると僕は思っているけれど、多くの人はそれを当然のように受け入れているようである。
マネージャーが上。部下が下。
マネージャーは部下をどのように扱っても構わない。
奴隷主と奴隷。
表現は何でもいい。
でも、実態はそんな感じである。
マイクロ度合いが優劣を決める?
僕はこの種の信仰を変えなければ、日本の生産性向上は夢のまた夢だと思っている。
しかしながら、若手マネージャー達も数年を経ると、この種のマイクロマネージャーになっているから、驚きである。
文化的伝播は本当に恐ろしいもので、このような形のマネジメントしか受けてこなかった層は、これを当然のものとして受け入れるようである。
そうやって下らないマイクロマネジメントが再生産されていく。
その優劣の基準は、マイクロ度合いである。
素晴らしき日本社会。
素晴らしきマネジメント。
野球型マネジメントとサッカー型マネジメント
話は少し脱線するけれど、日本が野球が強くて、サッカーが弱いのはこのような思想が関係しているのではないか、と僕は思っている。
もう少しこれを敷衍すると、旧来型の資本主義においては野球型マネジメントが有用であったけれど、現代の資本主義においてはサッカー型マネジメントが有用なのである、という話に繋がっていく。
監督(マネージャー)の指示をできるだけ忠実に守ること。
その忠実度合いを部下からの信頼の尺度とすること。
そのような野球型マネジメントは、もう現代には通用しないのだ。
もちろんサッカー型マネジメントにも、一定程度のルールは存在する。
ただ、局面の変化に応じて、そのルールから逸脱することが適切である場面が訪れる。
その際に、いちいちマネージャーの指示を仰ぐのではなくて、自身で判断を行うことができることが重要なのである。
工業型社会には合っているけれど…
僕たちの社会は、野球のように、都度膠着する。
その膠着の間に、「上司に聞いてきます」とか、「社内で相談します」というような、「サイン」の伝達が行われ、その「サイン」に基づいてプレーが行われる。
それは目的が変わらない社会(工業型社会)においてはとても有用な形であった。
ただ、現代はそうではない。
状況が常に動いていく。
それを1つ1つのプレー原則に当てはめていこうとするのがマイクロマネジメントである。
この局面ではこのようにプレーすることが望ましい、ということを1つ1つ叩き込んでいく。
確かに一定程度の強さまではいけるだろう。
でもその先には到達できない。
それが日本サッカーの限界であり、日本社会の限界である、と僕は思っている。
旧時代のAIのようなマネジメント
僕たちは、ルールベースの推論と探索しかできない、旧時代のAIと何も変わらないのだ。
都度社則を調べたり、前例を踏襲したり、逸脱にはフリーズするしかない、前時代のAIに過ぎないのだ。
あなたはそんな(優秀な)マネージャーになりたいだろうか?
僕はなりたくない。
試行錯誤しながら、局面で判断を柔軟に行っていく、そういうマネジメントを行っていきたいのである。
安いSF風ディストピア
それはディープラーニングを経たAIでも実現不可能なもの(人間だからできる種類のもの)なのである。
たくさんのマイクロマネージャーを見て、僕は安いSFのディストピアを想像する。
僕たちは自らをAI化させていることに早く気付くべきなのだ。
それを優秀と呼ぶなかれ。
そうなろうと思うなかれ。
それではまた。
いい仕事をしましょう。
あとがき
優秀であろうとすると、マイクロマネジメントになってしまうのでやめた方が良い。
そんなことを若手にはアドバイスすることがあります。
「憧れの監督は誰か?」と聞かれた時に、ガチガチの管理をする監督を挙げないように、僕たちは皆初めの頃は自由なマネージャーを目指すものです。
でも、厳しい現実に直面すると、みんなマイクロマネジメントをやってしまう。
そうならないようにするのは結構な困難を伴います。
優秀さを基準にせず、ゆるゆるとやっていきましょう。