いい顔しない

リスクとリターンは等価だ

人事評価と普段の接し方が異なる人がいる。

普段は「よく頑張っているね!」なんて善人面をしているくせに、裏では酷い評価をつけていたりする。

これは(僕がいつも言っている)リスクを取らない人に多くみられる傾向である。

僕はリスクとリターンは等価である、と常々考えていて、「良い人振るなら、それを貫けよ」「裏で言うなら、良い人振るなよ」と思ってしまう。

人から嫌われる勇気はないくせに、安全地帯から人のことを悪く言うのは、ちょっと違うんじゃないかと僕は思うのだけれど、どうやらこういうやり口が現代風であるようだ。

ハラスメント警察が跋扈した結果、小役人みたいな人が増えてしまった。

でもそれでは部下は付いて来ない。

今日はそんなことを書いていく。

僕はいい仕事をしたい

マネージャーになって数年を経た頃から、自分は何に価値を置くのか、ということを考えるようになった。

価値観というのは人それぞれで、家族の状況や金銭の状況、今後のライフプラン等々によって異なると思うのだけれど、僕の場合は「いい仕事をする」ということに至上の価値を置こうと思ったのである。

「いい仕事」というのは、あくまで僕基準なので、それが本質的に「良い仕事」であるかどうかは別であって(というかそれが本質的にいい仕事であることを僕は願うことしかできなくて)、誰が何と言おうと主観的に僕がいいと思える仕事をしよう、というのがそれからの僕の判断軸となった。

それは事後的に「後悔したくない」という感情とも結びついている。

正直であること

たくさんのマネージャー達と接する中で、僕はたくさんの「サイコパス的傾向」を持つ人達に会ってきた。

それは他者の問題なので、僕には関係ないことであるけれど、仮に組織的に評価されたとしても「こうはなりたくないな」と思うような人がたくさんいて、そのような仕事のやり方だけは避けたい、というのが僕の生き方の指針になってしまったのである。

意地になってはいけないし、意固地になってはいけない。

でもさ、というのが現在の心境である。

僕は自分に正直でありたいのだ。

リスクとリターンを等価として生きていきたいのだ。

それができないなら、別にしがみつくほどの地位ではない、と考えて僕は今も仕事をしている。

臆病者と卑怯者

「言行一致」は、マネジメントを仕事とする者が心に留めておかなければいけない言葉である。

もちろん、僕だって常にそれができているかと問われればそんなことはない。

僕はすぐに逃げる臆病者である。

でも、「逃げた」という後ろめたさだけは常に抱えていたいと思うのだ。

その後悔を背負って生きていかなければならないという自覚だけは持っていたいと思うのである。

それが臆病者と卑怯者の違いである。

僕は臆病ではあるけれど、卑怯ではない。

卑怯者にはなりたくないのだ。

良い人ぶるのは簡単

僕は部下に対して率直な物言いをする。

悪い点は悪いと言う。

それはそのような言い方ができるだけの関係性を普段から構築しているからである。

そこには不断の努力がある。

良いことだけを言うのは簡単である。

良い人振るのは誰だってできる。

でもそこから踏み込んだ発言をするのはとても難しい。

ましてや現代という時代だ。

すぐにハラスメントだと言われる時代である。

そこで耳の痛い話をするのは、僕だって嫌だ。

嫌われたくないし。

でも、それができなければ、チームが改善することはない。

マネージャーとメンバーが信頼関係を築くことはできない。

それは肝に銘じておく必要がある。

矜持と至らなさと身悶えと

自分でもできないことを人に求めるのは間違っている。

でも、マネジメントという仕事はそういう場面が往々にして訪れるものであることも事実である。

そのような時に、自身の矜持が問われる。

それを素直に開示できるかどうか。

我が身を振り返って、その至らなさに身悶えしながら、相手にお願いできるかどうか。

それがマネジメントとしての成長に繋がるのだ。

舐めたらあかん

自分は何でもできるという振りをしてはいけない。

自分は何でもわかっているという顔をしてはいけない。

そんなものは結局見抜かれるのだ。

部下を舐めてはいけない。

人を舐めてはいけない。

そしてそういう舐めたやつを評価してはいけないのだ。

変わり者の変わり者による変わり者の為のマネジメント

自分でも不器用な人間だと思う。

ただありがたいことに、僕みたいな仕事のやり方を評価してくれる部下が僕にはたくさんいる(ただの思い込みかもしれないが)。

他の生き方は知らない。

というか、そのような仕事のやり方に僕自身が耐えられそうにないのである。

変わり者の、変わり者による、変わり者の為のマネジメント。

僕は自分がストレンジであるという自覚はあるけれど、どこかで社会の方が本当はストレンジなのではないか、と思っている。

昭和の価値観に囚われている社会の方が間違っているのではないか、と僕はどこかで思っている(だから僕はおかしいと言われるのだろう)。

率直な物言いこそが相手に届く

率直な物言いや、建設的な議論は、批判ではない。

でもそのような言葉遣いこそが、相手には届くのである。

それは祈りか、ただの願望か?

まあきっとそうなのだろう。

それではまた。

いい仕事をしましょう。


あとがき

言質を取られないことに命を懸けているのではないか、と本気で疑いそうになる人と会うことが増えました。

それは変なことを言うリスクが社会的に高まってしまった結果だということは重々承知しています。

でもさ、というのが今日の話です。

あくまでも価値観の相違ではありますが、僕はそのような仕事の仕方はしたくないなと思っています。

そのようなことを感じながら仕事をされている方がいらっしゃったら、ここにもそんなバカがいます。

共に生き抜いていきましょう。