好事例共有に食傷気味なあなたへ

UnsplashTowfiqu barbhuiyaが撮影した写真

好事例の連発。でも当社は低迷中。

SNSネイティブ世代ではない僕は、「良いことは共有するものだ」という価値観に未だ馴染めないまま、化石のような気持ちで現代を過ごしている。

これは社内においても同様である。

社内SNSやチャットツールなど、そこには各部署・各チームの好事例がこれでもかというくらい掲載されている。

もちろん、趣旨はわかる。

「成功事例を参考にすることで、皆でレベルアップしていく」

ただ、捻じ曲がった僕はこのようにも思う。

「これだけ各部署で好事例が連発しているのに、なぜ当社はこのような停滞を続けているのか?」と。

確かに、良いことは共有した方が良いのかもしれない。

でも、それは本当に良いことに限定すべきなのではないか?

というか、そこに何らかの審査(or判断)基準がなければ、(現状のように)無法地帯になるだけなのではないか?

少なくとも、僕は好事例に胸焼け気味である。

今日はそんな話だ。

願望込みのフィクションばかり

この数年、特にコロナを経て、好事例を社内SNSに投稿しなさい、という圧力が強まっているように感じる。

これはメンバーもそうだし、マネージャーもそうだ。

チームで起こった良いことを、全社員に展開しなさいという指示。

別におかしなところはないように思える。

でも、これが全社で一斉に行われると、その質は正に玉石混交で、どれが本当に良い話なのかが全くわからなくなってくる。

「こちらがアップする際にも話を盛っているから、ここに出ている話も盛られているのだろうな」という考え方の氾濫。

そして、エスカレート。

結果、(願望込みの)フィクションばかりがそこに並ぶことになる。

何か変わりましたっけ?

導入当初、というかまだ事態がそこまで深刻じゃなかった時には、僕もそこに書いてある情報を参考にしていたこともあったけれど、最近はもうどうでもいいというか、「書くの大変だろうな…」という気持ちでそれらを眺めている。

たくさんのキラキラした話。

別の会社のような夢物語。

さて。

それで何かオレの仕事内容は良くなったんだっけ?

当社の業績は改善したんだっけ?

そんなことを醒めた僕は考えてしまうのだ。

Healthy? Hell see?

確かに批判し合うよりは、良いことを言い合った方が健康的であるように僕も思う。

でも、良い話の濫立が続くと、流石に食傷気味になる。

美味しい食べ物ばかりが続くと、時々はお茶漬けが食べたくなる。

そんな気分なのだ。

審美眼を鍛える

それを受けて、単純に数を減らしたらいいのではないか、と僕は思っている。

取り敢えずアップすればいいアップしなければならない、という状況をやめて、もう少し自由意思に任せれば、多少は数自体が少なくなると思う。

そして、何よりも大事なことは、それを見る人の目(審美眼)を鍛えることである。

冒頭に審査(or判断)基準ということを書いたけれど、数の濫立はある程度仕方がないと思うし、事前に検閲を入れるというのは現実的ではないと僕は考えている。

となると、ここで言う審査基準というのは、事後における審美眼によって、その質を担保するということになるだろう。

僕が良くないと思うのは、大したことがないものに対してコメントを付ける、それに更に誰かが被せる、そうやって盛り上がっているように装う、というこの一連の流れである。

そして、たぶん彼(彼女)らが重要視しているのは、内容云々よりも、盛り上がっていることそれ自体なのである。

それを是正したらいいのではないか、というのが僕からの提案である。

質の悪いものは買わない

これは最近の僕のテーマである、「評価者の質の向上」というところにも繋がってくる。

要は「どうせ誰もその質なんてわからないのだから、粗悪品でも何でも市場に出してしまえ」というような動機を失くす為に、質の悪いものは買わない(評価しない)という状況を作る、ということを僕は考えている。

その為には、見る者の目を鍛えるしかない。

それも一定数以上の。

たぶん海外から持ち込まれた「いいね!」文化は、個が個として成り立っているから上手くいくもので、そこに日本流忖度が混じると、このように訳の分からない状態になってしまうから、それを是正する為の何らかの方法が必要なのだと僕は考えている。

確かにみんなで良いものを共有すること自体は悪ではない。

ただ、その為には、その質を担保する為の構成員全体のレベルアップが必要となる。

というか、もう少し「下らないものを下らないね」と言えるような環境構築ができれば、こんなことはすぐに下火になるのかもしれない。

言いたいこと(少しは)言おうぜ?

きっと(僕だけでなく)みんな不承不承やっているのだ。

祭りが開催されているから、それに乗り遅れると村八分にされるから、楽しそうに踊っているけれど、本当はあまり楽しくないのかもしれない。

でも、言い出せずにいる。

「この祭りやめませんか?」と言うことがタブー化してしまっている。

となると、話は転じて、おかしいと思うことには乗らない、それなりに否定的な発言もする、という穏当なところに着地するような気がしてきた。

忖度なく意見を言うこと。

それを受け入れること。

そんな当たり前のことができるようになれば、この胸焼けも、少しは解消されるのかもしれない。

それではまた。

いい仕事をしましょう。

あとがき

良いこととか良い人とか、そういうものに若干疲れてきてしまっています。

もちろん、それが本当に良いことであったり、本当に良い人であれば何も言うことはありません。

でも、そうじゃないからとても疲れる。

そんな感じです。

ダメなものはどう繕ってもダメです。

そのような目を持ち、適切な批評をしてきましょう。