どうやったら管理職という仕事を楽しめるのか?

「管理職罰ゲーム論」を覆すために
「管理職は罰ゲーム」
その命題を覆す為にはどうしたらいいのだろうか、というのがここ最近の僕のテーマである。
そして、おぼろげながらではあるが見つかってきたのがここ最近の僕である。
もちろん、管理職が大変であり、罰ゲーム的であることに変わりはない。
少なくとも「管理職はご褒美だ」なんてことは口が裂けても言うことは出来ない。
日々、物凄く大変である。
でも、だからと言って、罰ゲームなのかと問われると、そんなこともないよね、と思えるようになってきたのも事実だ。
そこにある違いとは何か?
それを文章化してみようというのが今日の話である。
結論から先に言うなら、「罰ゲーム的環境に対して受け身でいるのではなく、能動的に変えられるものは変えていこうとすること、その過程(志向性)の中にこそ快の感情が生まれる」ということになるのかもしれない。
意味がわからないと思うけれど、そんなことを書いていこうと思っている。
それでは始めていこう。
コントロールできるものとできないもの
環境への向き合い方。
これはある程度自分でコントロールすることができる。
世の中にはコントロールできるものとコントロールできないものがあって、多くの人はコントロールできないものに対して、憤ったり、何とかしようと奮闘したりしているように僕には見受けられる。
もちろん、その試み自体を否定したい訳ではない。
ただ、あまり効果はないだろうな(労多くして功少なし)とは思ってしまう。
これを今日の話に置き換えるなら、管理職の仕事という環境はコントロールできないものであると僕は考えている。
それは罰ゲーム的であり、どう考えても過酷である。
でも、そこに対する向き合い方はコントロールできる。
この微妙な違いを理解できた時、「管理職は罰ゲームである」という命題から逃れる一筋の道が生まれるような気がしている。
取っ掛かりを見つけに行く
では、管理職という仕事に対して、どのような向き合い方が望ましいのだろうか?
まず僕が思うのは、全般的に管理職が罰ゲーム的であることを認めながらも、その中で能動的に変えることができるものはあるのではないか、ということである。
それは全体からすれば、ほんの些細なものかもしれない。
でも、そこから物事を始めてみるのだ。
罰ゲーム的環境に圧倒され、ただそこで呆然と立ち尽くすのではなく、その中に何かしらの取っ掛かりを見つけに行くこと。
もうその時点で管理職という仕事は少し楽しくなる。
志向性
もちろん、その取っ掛かりをきっかけとして、管理職の仕事自体が大きく変わっていけば最高だろう。
罰ゲームが罰ゲームでなくなれば、それはとても素晴らしいことだと思う。
でも、たぶん、そんなことは起こらない。
現状は現状のまま、罰ゲームは罰ゲームのまま、そこにあり続ける。
ただ、だからと言って、それが以前と同じ状態かというと、そんなこともないはずだ。
そのような姿勢。
変えられるものは変えていこうとすること。
その過程(プロセス)を僕は「志向性」と名付けている。
被害者面の人達からの決別
これは「自己効力感」に強く結びついている。
そして、世の中にたくさんいる「被害者面の人達」から決別する為の強い武器となる。
「管理職は罰ゲームだ!」と絶叫するのは簡単で、そこで打ちひしがれた顔をするのは安易である、そんなことを思う。
もちろん、気持ちはよくわかるし、僕だってそのような状態になってしまうことはよくあることだ。
ただ、それを前提とした上で、それでもやっぱりそのままではいけないのではないか、と僕は思う。
というのは、そのような状態で仕事をしていても、惨めになるだけだからである。
それが上記したコントロールできるものとコントロールできないものという話に繋がってくる。
社畜やドMになる必要はない
管理職という仕事は過酷だ。
その事実はきっと変わらない。
変えていこうとすべきであるとは思うが、きっと変わらない。
でも、そこにいる自分は変えることができる。
そしてそれは「社畜適応度を上げる」ことを意味しないはずだ。
過酷な管理職という仕事に対して、マゾヒスティックな快感を覚えるように体を改造しろ、ということを僕は言いたい訳ではない。
自己効力感を維持する為に、変えていけるものを見つけ、変えていこうとすること、それが大事なのではないか、ということを主張したいだけである。
自己満足と自己効力感
仕事には様々な側面がある。
もちろん、管理職だってそれは同じだ。
全ての業務が罰ゲームなのではない。
その中から小さな幸せを見つけに行こうとすること。
その中で自分の力を発揮しようとすること。
別に誰の為に行う訳ではない。
そして行ったからといって、何かが変わる訳ではない。
自己満足と言えば自己満足の世界。
でも、それはきっと自己効力感には繋がり得る。
だから、自己満足だっていいんじゃない?
それが僕の現在位置である。
欲を言えば、それに乗っかり、賛同してくれる部下が1人でもいれば、もうその時点で管理職としての役割は十分に果たしていると言える。
そんなことを思うのだ。
それではまた。
いい仕事をしましょう。
あとがき
書いたものを改めて読んでみて、「これってニーバーの祈りをただ言い換えているだけでは?」と思ってしまいました。
でも、管理職という過酷なものにどのように向き合うかということは、人生という過酷さに向き合うスタンスと似ているような気もしています。
大事なものは、落ち着きと勇気と知恵です。
変えられるものを変えようとしていること自体に快の感情は生まれます。
志向性を持って生きていきましょう。