無責任の体系

既視感の正体

コロナウイルスやオリンピックに関する政府の発言や行動を見ていると、なぜか既視感を覚える

その既視感の正体が何なのかを考えて、自分が属している組織の言動や行動と瓜二つであることに気付く。

これが交互に繰り返されていく。

そんな1年だったような気がする。

原発事故の時もそうだったけれど、僕が属している日本社会というものには「責任を取る」という概念がないようだ。

たぶんそれは当初の意思決定が「雰囲気」によってなされるということの裏返しになっているのだろう。

僕らは意思決定もしないし、責任も取らない。

何となく、何となく。

そんな感じ、そんな感じ。

そう言っている間に時間だけが流れていって、事態はどんどん悪くなっている。

そして心のどこかでカタストロフィを待ちわびている

ガラガラポンを願っている。

今日はそんな話だ。

大人の社会とは

「責任者出てこい!」と叫ぶつもりはさらさらない。

民主主義や合議制においては、一人の人間が完全に意思決定を行うというのは不可能だろう。

ただ、何かの事象が起きた時に「私が責任者です」と名乗り出る(実際には違っても)、社会がその人を「責任者」であると認める、そして責任の所在をはっきりとさせた上で解決策を考えていく、そういう社会を僕は「大人の社会」と呼びたいと思う。

それは同時に、その名乗り出た人を過剰に糾弾しない社会でもある。

僕たちはきっとそのようにしてある事象に対して「ケリをつける」ことが必要なのだ。

そうして「次のステップ」に移っていくことが必要なのだ。

意識的な楽観性

全てを過程・中途半端なままに置いておいて、誰の責任であるかもはっきりとさせないまま、僕たちは何事もなかったかのように、それを意識的に忘れようとする。

それは僕たちの良い所でもある。

敗戦も東日本大震災も、僕たちはそのような意識的な楽観性によって、何とか克服してきた。

そのエネルギーは他国と比べても特筆すべき水準であると思う。

でも、だ。

成熟した社会、「大人の社会」においては、きっとそれだけではダメなのだ。

データを分析したり、総括を行ったり、とにかく過去の事象を「そのまま」にしない

検証を行ったり、何が真因であったのかを探ったり、本質ベースで議論する。

それが必要な気がしている。

纏めてゴミ箱へ

この国にリーダーシップというものが存在しないのは、責任を取ることのリスクが大きすぎるからだ、と僕は思っている。

名乗り出た瞬間に、当事象に関係のない別の問題(それは全く当人には関係ない)も纏めて擦り付けられるからだ。

スケープゴートにされて、闇に葬られる。

そして何事もなかったかのような日常が続く。

意識的な記憶喪失行為。

そしてその記憶を呼び起こすことは野暮だとされる。

「公」を持たない僕たち

未来志向、と言えば聞こえはいいけれど、僕たちは反省が不得手な民族なのだろう。

だから螺旋階段の踊り場でダンスを踊り続けているのだ。

音楽は鳴っている。

いつか鳴りやむことを、いや、本当は既に鳴りやんでいることを、誰もがわかっている。

でも「鳴っていることにする」

少なくとも、自分がそこにいる間は「鳴っていることにする」

後世のことは知らない。

自分がいなくなった後は関係ない。

無責任の体系の連鎖。

どこまでも個人主義的な僕たち。

「公」という概念を持たない私たち。

それはたぶん変えられない。

それをデフォルトにして、制度設計をしなくてはならない。

同時代に生きる人達に対する信頼を失った30年

「逃げ切り世代」という概念をここ数年考えている。

世代論はあまり好きではないけれど、我々が属している日本社会の意思決定の射程はこの人達の時間軸の中に納まっているようにどうしても思えてしまう。

それは穿った見方なのかもしれないし、それについて僕は良いも悪いも思っていない。

フラットな感情だ。

自分がもしそうなら、同じように行動するな、とも思うくらいに。

でも、その累積が現状なのだ。

僕たちの知的退廃とご都合主義が、この失われた30年なのだ。

それは何も経済成長していない、ということだけではない。

僕たちが社会に対しての信用を、同時代に生きる人達に対する信頼を、失った30年だ。

責任を負えない大人たち

極端に個人主義的な人達が、世間というものを盾にとって、実態のない権威を帯びさせて、自分以外の他者の行動を縛っていく。

でもそれは自縄自縛的に作用する

いつしか僕たちは僕たち自身を監視するような、とても生きづらい社会を作ってしまった。

自信がないから責任を負えない大人を作り出してしまった。

他者を貶めることでしか、僕たちはプライドを維持できない。

コロナウイルスと自粛警察。

虚栄と見栄。

中身は空っぽ。

「私」から「公」へ

誰かを糾弾するのではなく、僕たちは僕たちにできる範囲で責任を少しずつ負う必要があるのだと思う。

少しだけ僕たちは「私」の領域から「公」の領域に出ていく必要があるのだと思う。

僕たちにパブリックを作ることは可能なのか?

胡散臭い共同体とか、うざったいムラ社会じゃなくて、21世紀仕様のヤツを。

それができた時、僕たちは大人同士として、マネジメントを思う存分楽しむことができるような気がしている。

それはきっと当分無理だろうけれど。

それではまた。

いい仕事をしましょう。


あとがき

外国に行くと、見知らぬ人同士が当たり前のように挨拶をしたり、議論をしていたりするので、羨ましいなと思うことがあります。

もちろん、旅行という短期間だけの見分なので、悪い面は全く見えていないのでしょうし、裏を返せば、それだけ油断のならない敵も多いということだと思うので、諸手を挙げて礼賛している訳ではありません。

ただ、何となく、人間らしいな、と思うのです。

僕たちの挨拶は「身内」に向けられたもので、僕たちの議論は「味方」であることを確認し合う行為で、そういうものに時々僕はうんざりしてしまいます。

それだけ平和であるということの恩恵を受けながらこんなことを言うのは身勝手極まりないのかもしれませんが、違う意見を言ったり言われたりすることが当たり前であることが本当に羨ましい時がある。

同質性と同調圧力が充満した島国ではきっと多様性の実現は不可能なのでしょう。

僕がおかしいのはわかっています。

でも同じようなストレンジャーがどこかにいて欲しいなとは思っています。

そんな人たちに共感して頂けたら幸いです。