「ただやる」ことを疑おう

心を殺さなければやっていられない

組織内で働いていると、「疑う」ということが悪いことのように思えてくる瞬間がある。

「考える」ことが悪であるように感じることがある。

新人研修で自殺者が出たり、ブラック研修と言われるようなものが日常的に行われていたり、そんなことは間違いなく異常であるはずなのに、僕たちは「そういうものなのかな」と思わされながら日々を送る。

いや、異常だとはわかっているけれど、それに抗うことは無意味だと思って諦めてしまう、という言い方の方が適切だろう。

考えると、虚しくなってしまうから。

疑うと、自己否定をしているような気持ちになってしまうから。

それならば、自分の心を殺して、何も感じないような状態にしてしまった方が、日々の仕事は楽に行えるようになる。

人間のマシン化。

僕が通勤ラッシュにおいて、階段を埋め尽くしながら昇っていくスーツ姿の集団を見て暗澹たる気持ちになるのは、その人達がことごとく心を消しているように思えるからだ。

もちろんそこに僕も含まれている。

今日はそんな話をしてみる。

疑問を持つことは非効率だ

マネジメント業をやることになってからもう6年経つ。

そこで学んだのは、「考えるだけムダ」ということだ。

本社や上司から降りてくる命令は、「やること」それ自体に意味があって、それを「どうやるか」ははっきりいってどうでもいいことなのだ。

「とにかくやる」こと、「ただやる」ことにのみ意味がある(もちろん成果は当たり前のように求められる)。

その過程において、「考える」こと、「疑う」こと、は無駄なことである。

疑問を持つと、手が止まってしまうからだ。

そこに納得的な説明を見出すことはできないからだ。

それならば、疑問も意思も持たず、言われたことを粛々と行う方が、圧倒的に効率が良い。

そして精神衛生上も良い。

心を失えば失う程、仕事の遂行能力は高まる?

「自分はあくまでも組織から言われたことを忠実に実行しているだけであって、その是非は私には関係ない」という思考は、ミルグラム実験そのものでもある。

そうやって僕たちは機械化していく。

機械化すると、「いかに効率的に行うか」というのが評価軸となる。

内容や質というのは計量不可でもあるし、ある種主観的な要素が含まれてしまうからだ。

組織内における上層部がことごとく尊敬できないように思えるのは、この「心の失くし度合い」が高ければ高いほど仕事の遂行能力が高いと評価される、ということが関係しているように思われる。

躊躇はいらない。

その時間がもったいない。

ただ、僕はふと思うのだ。

「ただやる」ことに何の意味があるのだろうか、と。

わからないエリートたち

価値観の相違、と言われればそれまでのことだ。

確かに、この先の領域は価値観の問題に過ぎなくなる。

でも僕が思うのは、働いている大多数は「まだ心を持った人達」で、その向こう側にいる顧客も「まだ心を持った人達」なのだ。

その人を動かしていくのがマネジメントなのだと僕は考えている(たぶんそれが間違っているのだろう)。

そしてこの人達を動かしていく為には、意味や目的が必要だ。

無味乾燥なお題目では人は動かない。

どんなに表面を取り繕っても、壮大なスローガンを掲げても、それは簡単に見抜かれる。

面従腹背なんて日常茶飯事だ。

エリートたちにはそれがわからないのだろう。

そしてそれでも構わないと考えているのだろう。

素晴らしい成果ならいいけど…

思春期の少年のように、何事に対しても突っかかっていくほどの純粋さは流石に今の僕にはない。

そこまで僕もウブではない。

でも釈然としないのは、そのような「効率の最大化」を図った人達の、心無い仕事の累積が大した成果を生んでいない、ということだ。

彼らはそれでも素晴らしい出来だと思っている。

自分の仕事はエクセレントだと思っている。

残念ながら、そんなことはない。

それは僕が勤務している会社だけでなく、日本企業全般に言えることなのだと思う。

だから僕たちはずっと停滞し続けているのだ。

意味を必要とされる時代から取り残され続けているのだ。

成功体験という桎梏

高度経済成長というのは、戦後から立ち直る際における途轍もない成功体験だったのだろう。

きっとそこには前回の東京オリンピックも含まれている。

令和になっても僕たちはその幻影に囚われたままでいる。

同じような成功体験を繰り返せると思っている。

日本社会における上位層の思考停止によって、日本の成長や位置づけが素晴らしいものになっているのであれば、僕がこんなことを言う必要はない。

そのやり方でやり続ければいい。

でも、どう考えてもそれが上手くいっているようには思えないのだ。

先進国ではなくなってしまった僕らの日常を変える為に

先進国ではなくなってしまった僕たちの日常を変える為には、やり方を変える必要があるのだ。

疑うことは悪じゃない。

考えることは悪いことではない。

面倒くさい口論や、本音ベースの議論の末に、面白い物事が出来上がることはたくさんある。

形式はもうやめよう。

ただこなすことはもうやめよう。

全て真に意味がある、なんてことは不可能だけれど、もう少し意味を帯びた仕事を増やしていこう。

そうすれば少しは変わっていくはずだ。

それではまた。

いい仕事をしましょう。


あとがき

YESマンが優秀である、という観念にうんざりしています。

もちろん、組織に属している以上、NOばかり言っていても仕事にならないですし、管理職という立場上、嫌でも吞まなければならないものがたくさんあることはわかっています。

ただ、果たしてそれだけでいいのでしょうか?

組織の上位層達は、「そうする方が身のためだよ」ということを盛んに言うのですが、その組織自体が外部から評価されていない現状についてあまり危機感を感じていないのが、僕にはどうにもわかりません。

そうやってこの30年間と同じように、停滞し続けていくのでしょうか?

また、彼らは「出世してから好きなことをやりなさい」と勧めてくるのですが、そんな彼らが好きなことをやっているように見えない(そして成果も出ていない)ので、余計に訳が分からなくなります。

大事なのは意味です。

パーパス経営なんて横文字を使わなくても、簡単なことです。

少しずつ意味を混ぜ込んで仕事をしていきましょう。

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