人間力ってトレードオフじゃね?

UnsplashFabrizio Chiaganoが撮影した写真

人間力と人間性

マネジメントをする人間には「人間力」が求められるという。

と書き始めてみたものの、僕はあまりこの言葉が好きではない。

人間性という言葉の方が好きだ。

そしてここからちょっと深堀りして、なぜこの言葉が好きではないかを考えてみる。

「力」という言葉には自らの意思で身に付けることができるものだ、という(ある種傲慢な)考え方が背景にあるような気がするからではないか、というのが僕の考えである。

「努力で克服できるものである」という響きがある、というか。

でも、「より良い人間」にはそう簡単になれない。

というか、元々の人間の性質なんて変わらない。

でも、できるはずだ、そうすべきだ、みたいな考え方。

逆に、そうなっていないのは、努力が足りないからだ、という思想。

僕は人間性というのはトレードオフだと思っている。

付加する(できる)ものではなく、何かを失うことで結果的に「そうなる(そうなってしまう)」というか。

意味が分からないと思うけれど、今日はそんなことを書いていく。

驚きの評価

マネージャーを何年もやってきて、360度評価なども何度も受ける中で、最近驚いたのが、僕には人間力がある、という評価である。

「マジで言ってんの?」

「節穴じゃね?」

というのが、それに対する僕の感想である。

というのも、僕は何も変わっていないからだ。

マネージャーの経験年数だけは長くなったけれど、中身は中2のままだし、狭量な自分は変わらないままである。

でも、そういう評価を受けるようになった。

今回はそれを自分なりに分析してみよう、という試みである。

それはもしかしたら人間力がないことで悩んでいる誰かの役に立つかもしれないから。

以下、話を続けていく。

人間力という言葉から連想されるイメージ?

あなたは人間力という言葉に対して、どんなイメージを持つだろうか?

僕は「徳の高さ」みたいなことを思う。

禅僧、みたいな感じ。

ある種俗世と切り離されている、というか。

礼儀正しさや謙虚さ、度量、品の良さ、包容力、その種のポジティブな言葉もそうなのだけれど、達観というか諦観というか悟りというか、そういう「一歩引いた」イメージがある。

そしてその後者の言葉たちのことを考えたら、確かに僕にはそのような要素があるような気がするのである。

僕は会社(人生)に執着がなくなってしまった

僕はある時期を境に、会社に対して執着がなくなってしまった。

もう少し深刻な書き方をすると、人生に対する興味が薄くなってしまった。

ある種の「投げやり性」みたいなものが、僕にはずっと付きまとっている。

だからと言って、自暴自棄になっている訳でもないし、完全に諦めている訳でもない。

熱の低い諦念。

低空飛行。

そんな感じである。

だから執着こそが、人間力の対義語であるような気がするのだ。

執着から離れた時、人間力という評価が生まれた

僕は色々なものを諦めた。

諦めたというか、興味を失くしてしまった。

昇進も、他人からの評価も、処遇も、その他諸々も、他者を含めた外部に対する関心が無くなってしまった(薄くなってしまった)のである。

それも「フリ」ではなく、本心から。

そうなった時に、僕には「人間力がある」という評価が付くようになった。

皮肉なものだ。

でも、きっとそういうものなのだ。

欲望の対象

何かを得ようとする人ある種の「欲」がある人、には人間力があるというイメージが湧きづらい。

僕はそう感じる。

それは欲望の対象が自分に向いているからだ。

「何だかんだ綺麗事を言っていても、あなたはあなたの出世の為に我々を利用しているんでしょ?」

部下はみんなそう思っている。

そしてそれは別に悪いことじゃない、というか、社会とか会社というのは「そういうもの」なのだ。

だからそこに対して悲観的な思いは僕にはない。

デフォルトというか、そりゃそうだよね、というか。

部下は養分?

部下を養分とすること。

それは上に立つ人間には必要な素養であると思う。

でも、できれば「バレないように」やって欲しい。

それが透けて見えると、人間力があるという評価にはきっとならない。

ミニマリスト爆誕

僕は多くのものを窓の外に捨ててしまった。

部屋には必要最小限のものだけ。

ある種のミニマリズム禅的なイメージ。

そこにきっと日本人は「美」を感じるのだろう。

それは狙ってやったものじゃない。

何というか、「そうなってしまった」のだ。

通過してしまったあとの状態のこと

僕は人間力を身に付けようとしたわけではない。

もちろん、そうなるべく努力はした。

でも、たぶん違うのだ。

加算するのではなく、減算しないと人間力は身につかない。

いや、違う。

人間性という「その状態」通過してしまった後の残滓、にはならないのだ、きっと。

人間力? 味薄いだけじゃね?

コーヒーフィルターにたくさんの執着が残って、僕はいま出涸らしみたいな状態である。

そこに「人間力がある」と人は言う。

そうなのか?

僕には味の薄いコーヒーにしか思えない。

つまらなく、特徴のない、冷めたコーヒー。

そんなものを有難がる必要なんてないような気がする。

人間力があるというのは必ずしもポジティブなことではないのでは?

僕はいま平らかな気持ちで、マネジメントという仕事をしている。

確かに仕事はし易くなった。

でも、それによって熱は失われてしまった。

それは必ずしもポジティブなことではないような気がしている。

失わないと得られないもの。

いつも通りよく分からない話になった。

それではまた。

いい仕事をしましょう。


あとがき

人間力がある、というコメントを貰って、一時的には嬉しく思っていたのですが、いやいや、考えてみればそんなに良いことではないのではないか、と思って書いたのが今回の話です。

歳を重ねてからマネジメントが楽になったのは、経験が増えたのが主因ではなく、恐らく執着がなくなったからだと僕は考えています。

よく言われる話ですが、手を空けないと、新しいものは持てません。

そしてその新しいものが、古いものよりも望ましいとは限りません。

我欲で突っ走っていた若かりし頃の自分は、自己嫌悪で倒れそうなくらい嫌いでしたが、それはそれで可愛げもあったよなあ、と思う今日この頃です。

あまり大人になり過ぎるのも考え物です。

程よく我が儘に生きていきましょう。