日本社会は集団コント

UnsplashEdo Nugrohoが撮影した写真

異世界転生モノ

理不尽なことが続くと、「これはコントなのだ」と思うようにしている。

(メンタルブレイクを避けるために僕が編み出した手法の1つに、「コント○○!」と頭の中でその状況のタイトルを叫ぶというものがあって、それをやることで、その場の理不尽なものが急にコメディに見えてくるからおススメである)

そのくらい馬鹿げたことが繰り返されるのが日本社会だ。

でも、そのように思っているのは僕だけのようだ。

演者たちは大真面目にその喜劇を演じているから。

僕はなぜかわからないけれどそこに迷い込んだ人として、急にコントに参加させられている。

もちろん台本も渡されていないし、どのようにその演目が進んでいくのか、見当すらついていない。

当然、オチが何なのかも知らされていない。

ただ、それが良いものではないこと(スベること)は薄々わかっている。

でも、もうコントは始まっていて、僕には止める術がない。

今日はそんな話だ。

ガチなん?

フリとオチ。

笑いの緩急において、フリが効いていればいるほど、オチはその威力を増す。

だから、みんなシリアスな顔でコントを進めていく。

僕にはそう思える時がある。

どうやっても喜劇であるはずの事態が、みんながあまりにも真剣な表情であることによって、「あれ? 実は本気なのかな?」と勘違いしてしまいそうになる、というか。

意味不明なことも、一生懸命取り組めば、それは現実となる、というか。

演技の自分が本当の自分に取って代わる

以前、「無謬性の原則と日本社会」という記事の中でも書いたかもしれないけれど、何か物事が進んでいる時に、そこに横やりを入れることは良くないことだ、という暗黙の了解が日本社会には通底しているような気がしている。

その場の流れを乱す奴は悪者である、そんな雰囲気が会社には充満している。

だから、みんな流れに沿って、演技を続けていく。

でも、演技は真剣に取り組めば取り組むほど、元の人格との境界線が曖昧になっていくものでもある。

俳優たちがモデルとなる人と同一化して、どちらが本当の自分であったかがわからなくなるように。

僕たちは長年の演技経験から、そのような所作が身についている。

もしかしたら、思考法方すらもそうなっている。

だから、誰もそれが喜劇であることを疑うことすらしない。

みな一生懸命。

みな全力。

そうやって大団円に向かっていくのだ。

三流役者

僕はその劇の間、突拍子もないことを突拍子もないタイミングで言い続けてしまう。

その度に場の空気は白け、観客たちは1人また1人と劇場を後にしていく。

演者たちも愛想をつかし、気づけば舞台上は僕一人。

ぽつんとそこに立った僕は、結局この劇が喜劇だったのか悲劇だったのかわからないままでいる。

誰もいなくなった劇場。

幕は降り、照明も落ちる。

流石の僕も舞台から降りて、うなだれたまま出入り口へ向かう。

そこに1人、掃除婦が入ってくる。

彼女は僕を一瞥し、また作業に戻る。

僕は言うべきだった言葉を探し続け、適切なタイミングを逃したことを後悔しながら、劇場を後にする。

掃除機の音だけが耳に残っている。

洗脳? 宗教?

僕は今の日本社会に必要なのは「ツッコミ」だと思っている。

「なんでやねん!」でも「いい加減にしろ!」でも「知らんがな!」でもいい。

とにかく現状に異を唱える言葉が必要なのだ。

みんな大真面目に下らない事に専心している。

そしてそれが下らないなんて微塵も思っていない。

洗脳なのか宗教なのか、はたまた生まれつきなのか。

いや、たぶん僕がおかしいだけなのだろう。

悪魔の代弁者

ケネディはキューバ危機に際し、悪魔の代弁者を置いた。

多数派に対し、敢えて批判や反論をする役割を担う人を指名した。

人間が意思決定に際し重大なミスを犯しがちであることを理解し、制度としてそれを防ぐような仕組みを構築すること。

こういう方向性に進むことを、僕は知性の発露だと感じる。

翻って現在の日本。

僕たちは集団でコントを演じ続けている。

それも無自覚なまま。

たぶんそれは悲劇なのだ。

でも僕には喜劇に見える。

「人生は近くで見ると悲劇だが、遠くから見れば喜劇だ」

チャップリンならそう言うのかもしれない。

僕にはよくわからない。

ピエロは笑われているのか、笑っているのか?

僕は時々自分がピエロなのではないかと思う時がある。

赤い鼻をつけて踊り続ける道化。

みんな僕を見て笑っている。

でも、本当は僕こそがみんなを笑っているのだ。

大根役者たちの大袈裟な演技。

面白くもないことで笑い合う三流役者。

放っておいてくれよ

クリティカルなことに目を背けたくなる気持ちはわからなくはない。

でも、いつまでもそうやってはいられない。

しょうもないコントに参加しようとしない人に、日本社会は同調を求めてくる。

僕の笑いと彼らの笑いは違う。

どうか放っておいてくれないか。

感性が違うのだ。

僕はただ、真面目に前向きに仕事がしたいだけなのだ。

馬鹿げたことをやめ、大変であっても意味のあることがしたいだけなのだ。

いや、意味なんて求めるからおかしくなってしまうのか。

「人生は欲望だ。意味じゃない」

そういうシンプルな世界で仕事をしたい。

それではまた。

いい仕事をしましょう。

あとがき

僕は頭がおかしい。

小さな頃からそう思ってきましたし、それは今もそんなには変わっていません。

自分がおかしいから、世界はおかしく映る。

きっとそうなのでしょう。

僕は狂人のまま、この素晴らしき世界で、発狂し続けるのでしょう。

でも、本当はどっちが正常かなんてわからんぜ?

狂人の戯言。

これからも面白がって頂けたら幸いです。