願望と現実は違うぜ?

UnsplashAnne Nygårdが撮影した写真

「そうあって欲しい」と「そうである」ように見えてしまう

願望と現実は違う。

そんなものは百も承知。

果たしてそうだろうか?

僕から見える多くの人たちは、願望と現実を取り違えているように見える。

気持ちはわからないではない。

「そうあって欲しい」という想いが強すぎて、「そうである」と見えてしまう(見たいと思ってしまう)のは、ある種人間らしいと言えるのかもしれない。

でも、ことマネジメントという仕事においては、この選別(種別)を間違えると致命的な問題になりかねない。

それを肝に銘じた方がいい。

今日はそんな話である。

「共通認識」とは?

事実と真実。

仮に願望と現実を取り違えないとしても、起きた事象に対する見え方は人それぞれである。

そしてその捉え方、記憶のされ方も大きく異なる。

それが「×人数分」となる。

すると、「共通認識」というものに対する懐疑というか、信頼性への不安が生まれてくる。

と言っても、それは別に珍しいことではない。

人間の認知能力の限界による、それぞれがそれぞれの現実認識を行うという、当たり前の社会生活。

認識がそれぞれの人にとって異なることがあるという、あるレンジ内での相違の共有。

それが大前提である。

人は世界を自分の見たいように見るもの

でも、今回のテーマはその次の話で、そこに願望が乗ってくる。

それも過剰な願望が。

「人は世界を見たいように見る」というのは、別に振りかぶって言うほどの話ではなく、そりゃそうだろうという程度の話ではある。

でも、この度合いが過剰である人が多いような気がするのだ。

それもマネジメントという、人間の集団を相手にする仕事においては、より過剰に演出されているように思うのである。

現実認識の精度

僕はマネージャーとそうでない人の違いは、現実認識をどの地点に定めるか、という見極めの能力の差である、と感じることがある。

先ほども書いたように、現実認識というのはそれぞれ異なるものであり、ある種異なって当然であるものである。

ただ、その精度というか、ズレ方(もし本当に「正しい現実」があるとして)には、ある種の幅があって、その範囲内に着地する必要はあるように思うのである。

現実修正主義者

でも、この幅を飛び越えて、「こうあって欲しい」という思いの方に、現実を修正する人がいる。

この歴史修正主義者ならぬ現実修正主義者が、マネジメントの出発点を危うくしているのだ。

そして、当然ながら、出発点がズレれば、向かう方向も、その距離もズレてしまう。

でも、その危うさに、これらの現実修正主義者たちは気づいていない。

マーケティングでも何でも、まず自分の相対的立ち位置を見極めるという行為は、仕事の中で自然とやっているはずなのに、ことマネジメントという話になると、これが大きくぶれてしまうのだ。

現実から目を背けない勇気を持った人だけをマネージャーと呼びたい

繰り返すが、気持ちはわからないではない。

人は見たいものだけを見たいし、見たくないものからは目を背けたい。

でも、どんなに怖くても、その現実を受け入れたくなくても、まずそこをじっと見ることからマネジメントは始まるのだと僕は思っている。

というか、その勇気を持った人だけをマネージャーと呼びたいと僕は思っている。

観察からマネジメントは始まる

人間が集団で働いていると、様々なことが起きる。

それも嫌なこと、目を背けたくなることが大半である。

でも、そこに目を向けなければ何も始まらない。

観察からマネジメントは始まるのだ。

もちろん解釈の違いはそれぞれ異なるだろう。

観察事象から立てられる仮説もそれぞれ異なるだろう。

ただ、観察の時点においては、できるだけ「願望」を立ち入らせないようにする必要があるのだ。

怜悧な目。

無機質なデータ。

それこそが座標軸を定めるのだ。

一切の添加物は不要

徹底的に現実を見ること。

そこにあるエッセンスを抽出すること。

余計なモノを取り除いて、雑音をミュートして、本質的なものだけにフォーカスする。

一切の添加物は不要なのだ。

そうすれば立ち位置が明確になる。

やるべきことがはっきりとする。

ここに全身全霊を捧げるべきなのだ。

そしてその後に「願望」という熱を入れるのである。

見たくないもの・そうでない世界・絶望的状況

多くの人はこの順番を間違えている。

というか、間違えているという認識すらない。

「見たいもの」「そうあって欲しい世界」「希望的観測」

そんなものはいらないのだ。

「見たくないもの」「そうでない世界」「絶望的状況」

それが僕たちのマネジメントの出発点だ。

そしてそれができたら、あとは希望しかないのだ。

やるべきことが明確だから。

冷たい現実に願望の熱量を

ここに「願望」の力を借りる。

冷徹な現実認識だけでは、人を動かすことはできない。

人を動かすにはエネルギーが必要だ。

だから「願望」という熱量を加える。

冷たい「現実」に、「願望」の熱を加える。

その両方がマネジメントなのだ。

現実を見よ

願望を語ること、パッションを込めること、大義やビジョンの類、それは否定しない。

大事な仕事だ。

でも、現実認識が誤っていれば、それはただの絵空事に終わる。

地に足の着いていない言葉ほど、集団を冷めさせるものはない。

この温度差。

それは現実認識が誤っているからなのだ。

現実。現実。現実。

そこからマネジメントは始まる。

というか、それがなければ、それをマネジメントと呼んではいけないのだ、きっと。

それではまた。

いい仕事をしましょう。

あとがき

以前にも書いたことかもしれませんが、日本人は現実を見ることが苦手だと僕は思っています。

最初は現実を見ようと議論を始めても、いつの間にか願望が先行し、「そうなって欲しい」「きっとそうなる」「そうに違いない」に転化してしまう場面を、僕は何度も目撃してきました。

現実を見ることは敗北主義ではありません。

そして、敗北主義が敗北を呼び込む訳でもありません。

厳しい現実に目を向けていきましょう。