マネジメント強化=社畜化?

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マネジメントを強化することで潤うのは会社だけでは?

マネジメントを「管理」だと思っている人がいる。

そういう人は、マネジメントを極めていけば行くほど、結局会社に過剰適応(社畜化)することに向かう(向かわせる)のではないか、と思うようである。

なるほど、確かに一理ある。

「チームが効率的になればなるほど、潤うのは会社であって、そこにいるメンバーではない」

「その後押しをしているのがマネージャーである」

その側面がないとは言えない。

「マネージャーは会社の手先であって、多くの蒙昧な社員たちを教化するのが仕事である」

「やっているのは、社畜化の手伝いじゃないか?」

否定はできない。

でも、そうじゃない道を探りたいと僕は思っている。

今日はそんな話だ。

自由意思の発露

「高度なマネジメントは、社畜化を意味しない」

やや理想主義的にはなるけれど、僕はそう思っている。

でも、それには働いている人たちの自由意思が必要である。

もう少し正確に書くなら、自由意思の発露が必要である。

当たり前、当たり前。

会社で働いていて、それもマネジメントという仕事をしていて僕が感じるのは、自分の感情や考えを表明することを極端に恐れる人が想像以上に多い、ということである。

いや、恐れるということすらしていないというか。

そもそも表明することなんて考えたこともない、というような感じというか。

会社の言うことを聞くのが当たり前で、上司の言うことを聞くのが当たり前で、そこでもし意見を求められたとしても、予定調和的な回答をすることが当然である、と考えているのではないか、そんな風に思うのである。

というか、たぶん考えてすらいないのだろう。

反射的に、盲目的に、そうなっているのだ。

意見を表明しない人達を操る方法=マネジメント?

ここにマネジメントという要素を入れる。

となると、冒頭のような考え方に行き着く。

「マネジメントの強化=社畜化」

それは確かにその通りだろう。

自由意思がない人たちを操る(「管理する」・「導く」など何でもいい)こと=マネジメント。

そのような側面がないとは言えない。

特に日本企業においては。

僕たちはそのままの状態で既に多様だ

結局のところ、「自分の考えを表明する(できる)」という「大人」が一定数存在しなければ、僕が考えるマネジメントというのは成立しない。

それぞれがそれぞれの考え方や価値観に基づいた意見を表明することで、そこには自然と多様性が現れるようになる。

それはダイバーシティとかそういう横文字に頼らずとも、ただ当たり前に現出するのだ。

僕たちは(もう既に)それぞれが違うバックグラウンドを持った人達だから。

進化論・棲み分け

僕はマネジメントを考える時に、いつも生物学的なアプローチをイメージする。

そこには進化論的な要素もあるし、「棲み分け」のような要素もある。

適材適所と言うとやや硬すぎるけれど、それぞれがそれぞれの特徴の中で生き延びていく、それを後押しするのがマネジメントなのだ。

僕はこれを「広い牧場」の例えでよく表現する。

目に見えないくらい遠くに柵がないとは言えないけれど、その柵を越えなければそれぞれのメンバーがそれぞれの場所で好きなように働けばいい、というのが僕の考え方である。

そして、マネージャーの仕事というのは、朝その牧場に連れていくことと夕方その牧場に迎えに行くこと、それだけである。

Fuck off 鶏舎型マネジメント

でも、多くの人が考えるマネジメントというのは、「鶏舎」みたいな感じがするのだ。

管理された空間の中で、管理された生産量を出力する為の仕事。

それを最適化することがマネジメントである、というか。

ここには「労働生産性」みたいな概念も加わってくる。

「管理の度合いを強めれば強めるほど、労働の強度は上がり、生産性も向上する」

否定はしない。

でも、僕が考えるマネジメントの方向性はそちらではないのだ。

単純にその方が成果が出るから

これはその方が「人間味がある」とか、「本来の働き方である」とか、そういう話ではなくて、単純にその方が生産性を高められると思っているからである。

令和という時代に高い成果を出すためには、その方が効率的なのである。

このイメージが上手く伝わらない。

効率的に管理できるマネージャー=有能?

昭和のような、大量生産・大量消費の時代においては、鶏舎型マネジメントは有効だったのかもしれない。

皆が自由意思を持たず、朝から晩まで管理され、同じように行動することが良しとされたのかもしれない。

それを如何に効率的に管理するかが、マネージャーの有能さの指標だったのかもしれない。

それはもう通用しないぜ?

みんな好きなこと言えよ

ユートピアとかお花畑とか、そういうことではなく、単純に成果の出力が違うのだ。

でもその為には皆が自分の意思を表明することが必要なのだ。

そして、その自由意思の表明をし易くすること(今風に言えば心理的安全性を確保すること)が我々マネージャーの仕事なのである。

凋落した日本における訳知り顔の連中たち

昭和のおじさん達が訳知り顔で言う鶏舎型マネジメント。

それを遥かに凌駕する圧倒的な成果。

それを出し続けることで、僕はこの「勘違いマネジメント勢力」を一掃したいと思っている。

見てみろよ、この日本の体たらく。

この失われた30年はお前らが尊ぶ鶏舎型マネジメントのせいなんじゃないか?

僕はそれを変えたいのだ。

それではまた。

いい仕事をしましょう。

あとがき

お前らの言う成功の基準じゃオレは満足できないんだよ。

そんなことを考えたりします。

僕は右でも左でもなく、単純にこの凋落した日本の現状をずっと歯がゆく思っています。

と言っても、別に尊敬される国になりたいとかそういうことじゃなくて、誇りを持てるようになりたいだけです。

おじさん達の言う成功は、ダサい国における内輪受けに過ぎないんじゃないか?

負け犬の遠吠えにならない為の圧倒的成果。

それを求めて、僕はまた今日も異端のマネジメントを続けていきます。

各地で共に戦って頂けたら幸いです。