部下の自己評価の乖離にどのように対応するか?

高い自己評価。強い承認欲求。
今日は教育論みたいな話になってしまうかもしれないけれど、ある一定年齢以下(僕はゆとり教育が関係していると思っている)の部下は、自己評価が高く、承認欲求も強い、と僕は感じている。
これは個人差というよりも(もちろん個人差もあるが)、世代差みたいな感覚に近い。
そして良いとか悪いとかそういうものでもなく、単純に「傾向」として僕は捉えている。
褒める教育、個性を伸ばす教育、その他諸々の「個」を尊重するような社会的風潮の中で育ってきた部下の多くは、自分が「平均より上(もしくはかなり上)」というマインドをデフォルト値として持っているような気がしている。
そして我々以上の世代というのは、ある程度自己卑下というか、謙遜というか、それが美徳であるという価値観(実際にそうだったかどうかは別として)の元で育ってきたように思う。
そのギャップ。
それを抱えながら、どのように部下育成をしていけばいいのか?
今日はそんなことを書いていく。
その自信はどこから?
自己評価と他者評価の乖離。
それはどんな人にも起こり得るものである。
これがまず大前提だ。
でも、その乖離の大小はあると僕は思っている。
そして若い世代はその乖離が大きいとも思っている。
僕が部下と毎週1on1をやっていて思うのは、「その自信はどこから来るのだろうか?」ということである。
強く言うと断絶されてしまう
営業という仕事柄、数字は付いて回る。
言ってみれば、如実に現在地が分かる訳で、実力もある程度近似的に表現される訳である。
それなのに、というのが今日の話である。
下世話な言い方をすれば、「この数字でよくそんな感じでいられるよな?」という感覚を覚えることが年々増えて来ているように思うのだ。
ただ、そこでその感情をそのままぶつけても何にもならない。
彼(彼女)らはそうは思っていないから。
もっと言えば、「コイツは何にもわかっていない」「耳障りなことは効きたくない」と関係性を断絶しようとしてくるから(これも若い世代の傾向であると僕は思っているが、それはまたどこかで話そうと思う)。
重い一発よりも軽いジャブを多めに
では、どうするか?
日和った結論にはなるが、ジャブを打ち続ける、というのが僕の回答である。
以前であれば、重いパンチというか、一発で仕留めに行くような話し方を僕はしていたように思う。
「お前のここがダメだ」「こういった部分に課題がある」
もちろん言い方はマイルドにしていたけれど、趣旨としてはそのようなことをストレートに伝えることが多かったように思っている(例えばオフィシャルなフィードバックの時などに)。
でも、現代の若者たちにこれをやると遠ざけられてしまう(コンプラ的にも問題だろう)。
「うるさいおじさん」とカテゴライズされて、聞く耳を持たれなくなってしまう。
なので、軽いジャブを入れる。
それも具体的な事象に対して、頻度高く入れていくことが重要だ。
そういう意味では、以前は抽象的なことをドカーンと纏めてフィードバックしていたのに対し、現在は具体的なことを高い頻度でその都度フィードバックしている、ということになるのかもしれない。
好きではないが、仕方がない
正直言えば、現在のやり方はあまり好きではない。
何というか、本質的ではないような気がするからだ。
でも、何年も若手世代と仕事をしてきて、自分の話を聞いてもらうためにはこのような手法の方が良いように(まだマシだと)思っているので、仕方なくやっているのである。
もちろん、時に重いパンチも打ち込むようにはしている。
ようにはしている、というか、自分の性格上言わずにはいられない、というのが本当のところではある。
シリアスなトーンというか、真剣に伝えたいという時には、もちろんそれもやる。
でも、普段のところは、もっと軽くカジュアルにやる方が効果的なのだ。
「異質な他者」童貞
それは「異質な他者」に対する免疫があまりないように感じるからである。
彼(彼女)らと接していると、「(同世代が皆似たような感じだからなのかもしれないが)自分と違う考え(価値観)を持っている人間がこの世には存在している」ということが実感としてあまりわかっていないように感じる時がある。
もちろん概念としてはわかってはいるのだろう。
ただ、会ったことがないというか、直面した経験がない(少ない)ように感じるのである。
ましてやその「矢印」が自分に向いてきたことなんてない、というか。
落ち着いた自己評価=成熟
自己評価というのは、異質な他者との交わりの中で、ある程度妥当なものに落ち着いてくる。
それは妥協と言えば妥協だし、諦めと言えば諦めではある。
でもそのようにして、人は成熟していく。
成熟するということは、自分の立ち位置がわかるということであり、自分の立ち位置がわかれば、自分の活かし方みたいなものもわかってくる。
結果として、パフォーマンスが上がる。
それが若い世代にはわからないようなのだ。
野放図な個性は個性ではない
自分はスーパーマンではない。
でも、それを嘆く必要はない。
適材適所、自分の個性の活かし方は、彼(彼女)らが思う個性の活かし方とは違う。
野放図な個性は個性とは言わない。
自己認識が適切にできない個性は個性とは呼べない。
それを徐々にでも理解してもらうこと。
そこから大人のチームへの道は始まるのだ。
それではまた。
いい仕事をしましょう。
あとがき
いつかどこかで痛い目を見るのだろうな。
若手と接しているとそんなことを思います。
でも、それを今言ってもわからないだろうな、とも。
そして、それがわかった時には手遅れなのだろうな、とも。
最終的には彼(彼女)らの人生は彼(彼女)らのものです。
自己評価の乖離なんて物ともせず、彼(彼女)らは進んでいくのでしょう。
それはそれで僕には関係のないことです。
でもわかっていて言わないのも違うかな、と。
変えよう、なんて思わず、小言のようにただ言い続けていきましょう。