「どの口が言ってんだ?」と思うことばかりでウンザリするぜ
権利と義務が等価であるという考え方は時代遅れ?
アピールと厚顔無恥は違う。
そんなことを思う。
自分の成果を実態以上に見せようとすることは、まあ良いこととは言えないものの、大なり小なりは誰しもが行うことであり、僕もそこまで違和感を覚えることはない。
でも、それが行き過ぎると、それも厚かましくなってくると、何だかムズムズとしてくる。
面の皮の厚さは、この現代という過酷な環境を生き抜くうえでは必要なものであるとは僕も思う。
ただ、そこには対価というか、それなりの持ち出しというか、そういうものは最低限必要なのではないか、と思ってしまう。
何らかの負担を負っているとか、責任を担っているとか、それがなければ他者に対して言うことなんて(それも攻撃的に)できないよね、と僕は思っている。
でも、そのような感覚は時代遅れというか、もう今そういうことを考えている人っていないよねとも感じている。
権利の主張と義務の履行。
それは等価か、等価に近いものであるべきでは?
そういう感覚って、もう古臭いんでしょうか?
今日はそんな愚痴めいた話である。
それでは始めていこう。
愕然とすらしなくなった
自分ではできもしないことをいけしゃあしゃあと言う人がいて、それもそこに何の躊躇いも恥じらいもないことに、僕は愕然とすることがある。
いや、この表現は適切ではない。
そんなことが日常的に起き過ぎて、そもそも愕然とすることなんてない。
それくらい感覚が麻痺ってきている。
「ああ、またこの感じね」
それがリアルな実感である。
一線を越え、節度を失った
僕は平成のどこかのタイミングで、人々は辛うじて備えていた節度を失ったと感じている。
それは政治的な要因も経済的な要因もきっと関係している。
表現しがたいけれど、ここだけは超えちゃいけないよねという人としてのラインを完全に踏み越え、集団的モラルハザード状態に陥ったと僕は思っている。
そして、それがわかりやすい形を取らないことも。
わかりづらい病態
そこに僕は精神的病理みたいなものを感じる。
鬱屈したというか、捻くれた病態みたいなものがそこにはあるように思う。
わかりやすく露出していればそれはまだマシで、本人もそれが病気であることに自覚的であるはずだし、周囲もそれに対処することは不可能ではない。
でも、それが地下に潜っていて、本人もそれが病気であることに気づいていない場合、それも集団的にそのような状態になっている場合、事態は混迷を極める。
皆バタバタと倒れていった
僕は会社員という立場で、働きながらそのような事態の推移を見てきた。
「心ある人」は壊れゆく何とか組織を支えようと奮闘していたけれど、その戦いは防戦一方で、一人また一人と倒れていった。
以前からも、そのような人たちが多数派を占めることはなかったけれど、それなりの割合が会社にはいて、それによって何とか会社というのは形を成していたと僕は思っている。
でも、そのような人たちは死に絶えてしまった。
見切りを付けたり、耐えられなくなったり、理由は様々であるだろうけれど、次々と会社から去っていった。
そうして「どの口が言ってんだ?」というような人ばかりが残った。
雪崩的モラルハザード
そりゃそうなのだ。
この種の人は、上記したような人たちが必死になって行っていた「汚れ仕事」を、何の労力も払わずに自分の手柄であるように吹聴することに長けているからだ。
そして、更に悪いことに、そのような恩恵を受けているにも関わらず、「汚れ仕事」をやっているような人たちを「時代遅れである」と蔑んだり、揶揄したりすることで、どんどんと隅に追いやっていく。
結果、「口だけは達者だけれど、何の責任も負わない人」が組織の大半を占めることになった。
それを見て、多くの社員はバカらしくなり、モラルハザードが雪崩のように起きた。
僕はここ10年くらいの動きをこんな風に捉えている。
残党としてのゲリラ戦
そして、僕は掃討された(ジェノサイドされた?)人たちの残党として、ゲリラ戦を戦っている。
ただ、同時に、そこに何の意味があるのだろうか、とも思い始めている。
ある種の破壊願望というか、「こんな会社なくなっちまえばいい」というような感覚というか、カタストロフィを望むような感情が、僕の中に芽生え始めている。
それは望ましいことではないけれど、「仕方ないんじゃないか?」、とも思ってしまっている。
手を放せば、楽になれる
何と言うか、非常に馬鹿らしいのだ。
真面目になって働いていること、そしてそれがきっと自己満足に過ぎないこと、そんな虚しさがずっと僕には纏わりついている。
手を放せば、楽になれる。
それが僕の今の正直な感覚である。
正直さだけが取り柄の国では?
そういう意味では、以前は「どの口が言ってんだ?」と憤りを感じていたけれど、今の僕はそのような感情さえ湧かなくなってしまっていると言えるのかもしれない。
呆れている、というか、呆れすら通り過ぎた、というのが正直なところである。
そして、もしそのようなことが当社だけでなく、日本全国で同じように起きているとするなら、本当に日本という国はヤバいんだろうな、とすら思ってしまう。
正直さだけが取り柄の国なのでは?
そのような奴が最後に勝つという教えが、この国の拠り所だったのでは?
キリギリスとウサギの圧勝
アリとキリギリス。
ウサギとカメ。
キリギリスとウサギの圧勝。
皆さま盛大な拍手を。
それではまた。
いい仕事をしましょう。
あとがき
恥知らずの人ばかり。
そんな不遜なことを思いながら、僕は仕事をしています。
そして、以前であれば、そこに憤りを感じていたのですが、それももう疲れてしまいました。
あまりにもそのようなことが多すぎるから。
そのような刺激に一々反応していたら心が壊れてしまうから。
僕はセンサーの感度を落とし、不感症(不干渉?)として暮らしています。
援軍未だ来たらず。
そろそろ自決するしかないのかもしれません。
もし可能であれば、どこかで同じようにゲリラ戦を戦って頂けたら幸いです。