やりたいことがない人へ

やりたいことがないマネージャー

キャリア面談をしていると、「やりたいことがない」という話が部下から出てくることがある。

そんな時、マネージャーであるあなたはどのようなことを話すだろうか?

何か将来の展望について話をするだろうか?

実際に僕自身はこの種のやりたいことがない若者であった。

そしてそれは現在も変わっていない。

やりたいことがないまま、マネージャー業を続けている。

それが本音である。

僕からすると、「やりたいことがある」人の方が稀で、というか、やりたいことがあるならサラリーマンなんてやっていないでそれをやればいいのに、という捻じ曲がった考え方があるので、特に何か具体的な展望を話すこともなく、うんうん唸って終わる、ということが多い。

でも、それでもいいのではないか、というのが今日の話である。

それでは始めていこう。

興味の重要性

現代においては、何かしらの専門性(スペシャリティ、エクスパティーズ)を身に付けなさいそうでないとこれから本格的に到来するジョブ型雇用環境においては生き残れないよ、ということが盛んに言われる。

僕も「そういうものなのかな」と思ったりもする。

でも、果たして本当にそうなのだろうか?

例えば、よく若手から出てくる話として、「プログラミングなどのITスキルを身に付けたい」というものがある。

一見すると、現代風でとても意欲があるように映るし、社会的にも「確かにそうだよね」と賛同する人は多いだろう。

僕自身も「必要なスキルなのだろうな」と思っているし、実際に齧ってみたりもしている。

そこで気付いたのは、「エクスパティーズと呼べるような領域までは到底行けないし、そもそもそんなに興味がないな」ということである。

大事なのはこの「興味がない(湧かない)」という部分で、この辺があまり理解されていないように思う。

「べき論」が先にあって、「そうならなければならない、だから頑張る(資格を取るorスキルを身に付ける)」というような順序だと、なかなかモノにはならない、ということを理解しておくことが重要なのではないか、と最近思うのである。

べき論だけでは難しい

これは語学の学習に似ている。

「英語を話せるようになりたい」という意見に、異を唱える人はあまりいないだろう。

「そうか。頑張れよ。英語は確かに必要だよな」と誰もが思うだろう(もうすぐ自動翻訳でいらなくなるかもしれないけれど…)。

でも、その「話せるようになる」という水準感は様々だし、喫緊の必要性に迫られておらず、その学習自体に興味がなければ、なかなか上達はしないだろう、と僕は思うのだ。

このように「あるべき姿」が先にあって、そうなろうと努力する、ということは一見良さそうではあるけれど、そこには何かに駆り立てられるような「駆動感」はない。

それよりは、気付いたらやってしまっていた、面白くてのめり込んでしまった、というような「事後的に理解する」ことが大事なような気がするのだ。

気づいたら来てしまったという感覚

これはキャリアにおいても同様である。

何か具体的な展望があって、それに向かって努力する、というのも悪くはないけれど、色々と唾をつけてみたら面白いと感じるものがあって、それをやっていたらここまで来てしまった、という方が良いような気がしている。

そういう意味では「やりたいこと」なんてものはいらないのかもしれない。

勘違いして欲しくないのは、そうは言っても「やってみる」ことは大事である、ということである。

何か興味が湧いたら、取り敢えずやってみればいいと思う。

会社によってできることできないことがあるかもしれないし、制度として整備されていたりされていなかったりするかもしれないけれど、とにかくやってみることが大事であるような気がしている。

それによって、合う合わないが分かると思うし、自分のレベル感も分かるだろう。

こういうイメージがキャリアを考える際には必要な気がしている。

最短距離を走りたい気持ちはわかるけれど…

「最短攻略法」であるとか「最強攻略法」みたいな、「コスパ重視」のキャリアプランみたいなものを若者たちは描くようだけれど、それはお勧めしない、という言い方ならうまく伝わるだろうか。

「これからの時代に必要なのはこれだ!」というメディア等々の煽りに戸惑う気持ちはわかるけれど、それが自分に合うものであるかはまた別問題で、情熱を注げないものであればやっぱり上達はしないし、専門家というレベルまでは到達できないだろうと僕は思うのだ。

それよりは、嫌じゃないもの、できれば興味を持って休日でも学びたいと思えるもの、の延長線上に仕事があって、それをいくつかやっていたら熟達してしまった、みたいな感じがいいのではないか、と僕は考えている。

決めうちは陳腐化にもなりかねない

そして、その仕事が合うかどうか、というのは自分だけでは判断できず、他者からの評価についても考慮する必要があるのではないか、と思っている。

自分では合わないと思っていても、他者からは評価されるものもあるし、でもそれを自分では心地良くないと思う場合もあるし、その辺のバランスの中で良いものを選べばいいのではないか。

そのくらいぼんやりとしたものでキャリアは構わないような気もしているのだ。

「決めうち」は素晴らしいもののように見えるけれど、現代のように流れが速いビジネス環境ではすぐに陳腐化してしまう可能性だってある。

専門家には確かに憧れるけれど、ゼネラリストだって必要な気がするというのが最近僕が思っていることである。

参考にはならないかもしれないけれど。

それではまた。

いい仕事をしましょう。


あとがき

今日の話は「connecting the dots」的な話なのかもしれない、と本文を書いてから思いました。

やや東洋的な思想にはなってしまいますが、キャリアというものを考えた時には、僕にはその方がしっくりきます(キャリアという考え方は西洋的で、逆算的な思考がそこにあるように僕は捉えています)。

「業」であるとか「縁」であるとか、何となく良いと思ってやっていたものが、事後的に繋がっていく、それでいいのではないかという考え方が、キャリア論にも必要な気がしています。

「5年後どうなっていたい?」というのはコーチングの定番の質問ですが、これに違和感を覚えるのはこういうところから来ているのかもしれません。

やりたいことがなくても、落ち込む必要はありません。

愚直に前に進んでいきましょう。