アジアカップと日本代表

UnsplashEmilio Garciaが撮影した写真

組織の問題を個人の責任に転嫁してしまうという問題

アジアカップ(サッカー)が終わった。

イランに負けてベスト8で敗退。

予選リーグでの雰囲気からすると、まあ妥当なところなのかな、というのが僕の感想である。

というのも、マネジメントにおける問題がずっと解決されておらず、それが今回も露呈した、ただそれだけのこと、という感じがしたからである。

詳しい試合の解説は専門の方に譲るとして、マネジメントという観点からサッカー日本代表の問題点、もしかしたらそれはサッカー日本代表だけではなく、日本社会全体の問題なのではないか(だいぶ風呂敷を広げたが)、というところを話してみたいと思っている。

それは端的に言えば、「組織の問題を個人の責任に転嫁してしまう」ということだ。

それでは始めていこう。

勝敗は個人が決めるもの?

「サッカー監督の仕事とは選手交代なのか?」

これがここ数年の日本代表を見ていて僕が思うことである。

その疑問は監督自身にも向いているし、見ている観客にも向いている(もしくは評論家と呼ばれる人にも向いている)。

また、この疑問をもう少し広げると、「勝敗というのは個人がもたらすものなのか?」というものに発展していく。

選手の良し悪しは個人だけに起因する?

サッカーの試合後、よく言われるセリフの1つに「○○(人名)が良くなかった」というものがある。

もしくは「○○(人名)が効いていた」というものがある。

確かに、サッカーという競技は個人が集まって行うものだし、失点や得点というものはその個人が直接的ないし間接的に関与するので、そこに焦点が当たる(当たり易い)というのはよく理解ができる。

例えば今回のイラン戦であれば、板倉(伊藤)選手が良くなかったとか、前田(久保)選手が効いていたとか、そういう話である。

そして、その選手を代えるべきだったとか、代えるべきじゃなかったとか、そういう議論が巻き起こる。

その矛先が監督にも向かう。

いやいや、ちょっと待てよ、と僕は思う。

「監督の仕事って選手交代なんでしたっけ?」

「選手が良くなかった(効いていた)要因は、その選手個人(だけ)に起因するものなんでしたっけ?」

個人の問題ではなく、組織の問題と捉えるべき

これはビジネスの世界でも同様である。

僕らも無意識のうちにこのような言語運用をしている。

「アイツが使えない」

「彼(彼女)のおかげで上手くいった」

いや、サッカーの場合も、ビジネスの場合も、個人の出来が全く関係ないとまでは流石の僕も思わない。

でも、その個人が活躍するか否かというのは、個人の能力やコンディションだけでなく、戦術(戦略)にマッチするかどうかに大きく左右されるのではないか、と僕は思うのである。

そして、我々のようなマネジメントを仕事にする者は、試合の勝敗を個人の能力やコンディション(だけ)のせいにしてはいけないのではないか(戦術や戦略のミス、ひいては組織の問題だと認めなければならないのではないか)と思うのである。

チームとして決め事がない=マネジメントの問題

再びサッカーの話に戻すと、今回のイラン戦においては、相手のロングボールの出し所(最終ライン)に対するプレスが全く掛かっていなかったことが敗因であると僕は思う(これはイラク戦でも課題となった「既知の問題」である)。

そしてそのプレスが掛かっていないのは、選手個人の寄せが遅いとか、疲れがあったとかそういうこと(だけ)ではなく、プレスの嵌め方が明確に決まっていなかった(数的不利を打開するための戦術がなかった)からである。

相手の3バック(2DF+1DMF、もしくはGKを入れて4人)に対して、1人ないしは2人しかプレスに行かないのであれば(それもチーム全体の意思統一が図れてないのであれば)、それは取れない。

かといって、プレスをやめて、ブロックを引く訳でもない(こちらはフィジカル的にも難しいだろうが…)。

このような中途半端な現象は、今大会だけではなく、もう数年間ずっと続いている。

これはマネジメントの落ち度(組織の問題)であると僕は思う。

もっと言えば、ビルドアップの方法にも工夫は見られないし、トランジションにおける明確な決まり事もなさそうに見える。

非常に乱暴な言い方をするなら、個人の努力だけで戦っている、その結果も全て個人の責任となる、そういう印象を受けてしまう(もちろん流石にそこまでは酷くないと思う。僕は素人で相手はプロだから)。

確率を上下させるのがマネジメントの仕事

そして、これは日本組織の問題点を僕に思い起こさせる。

何か問題が起きれば、それは個人の責任とされる。

もちろん、その問題は最終的にはその個人が引き起こしたものなのかもしれない。

でも、そこに至るまでの過程においては、組織にその問題を引き起こさせるような遠因(要因)が必ずあるのである。

もちろん、その要因を取り除いたからといって、その問題が起きることは防げなかったのかもしれない(今回のサッカーに例えるなら、最終ラインにプレスに行ったとて、それが嵌っていたとて、失点してしまったかもしれない)。

ただ、その確率を下げることはできたはずなのだ。

そして、その確率を上下させることが我々マネージャーの仕事なのである。

勝敗とマネジメントの成否は別

もちろん、個人の能力や頑張りによって、劣勢であっても勝利を収めるということは起こり得る。

でも、本質的な問題(組織的に解決できる問題)に手を付けていないなら、それは確率的には負けている(マネジメントとしては失敗している)ということなのだ。

それをきちんと見極めなければ、勝ちも負けも個人の問題に矮小化されてしまう

選手交代にフォーカスし過ぎでは?

選手交代は、確率を変動させる方法の1つに過ぎない。

そこに焦点を当てすぎることは、組織の問題を個人の責任にすり替える(もしかしたら、その片棒を担ぐ)ことに繋がる。

それはやめようぜ?

というか、組織の問題を組織の問題として捉えた上で個人の責任を問うような形にしないと、個人がシュリンクするだけ(組織はそのまま)じゃないか?

マネジメント不全に焦点を当てよう

「勝ちに不思議の勝ちあり。負けに不思議の負けなし」

戦犯を挙げるよりも、マネジメント不全を嘆くような体制を。

向いていない場所で、向いていない動き(役割)をさせて、その責任を取らせるなんておかしくないか?

素人が煩いことを言った。

それではまた。

いい仕事をしましょう。

あとがき

個人の能力コンディション。

ビジネスの世界でも、組織の話がいつの間にか個人の話に置き換わっていることが散見されます。

もっと言えば、努力や根性のような精神論浪花節に。

本文中にも書きましたが、それが勝敗に関係ないとは僕も思いません。

最後の部分では、個人個人の精度がその勝敗を決するということは十分に起こり得るでしょう。

でも、たぶん、日本は、まだ、そこまで、行っていない。

マネジメントに解決できるであろう課題は山積している。

僕はそう感じています。

分かり易い個人への糾弾(ここには監督への批判も含まれますが)をやめて、組織的な問題解決の方向に意識を向けていきましょう。