カタさとユルさ

輪郭のないチームマネジメント

好みの問題だと言われればそれで話は終わってしまうのだが、僕はユルいスタイルでのマネジメントを好む。

というか、自分自身がちゃらんぽらんな人間なので、カチッとしたスタイルでマネジメントできない。

最初の頃はそれは欠点だと思っていたのだけれど、5年間の経験を経た今となっては、それは長所だと言っても過言ではないと思う。

輪郭がなく、曖昧な状態なのだけれど、なぜか数字が上がる。

僕はそんなよくわからないチーム運営を行っている。

そのエッセンスを文字に起こすべくこのブログを始めたのだけれど、書くたびにするすると手から離れていってしまうような印象があって、読んでいる人も「よくわからないなあ」と思っているような気がする(それは本当に申し訳なく思う)。

単純に筆力がないというのがその大きな要因の1つであるのは承知の上で、それでもその抽象的でテキトーな概念が重要なのだ、ということを今回は書いていきたいと思う。

勝負所で勝ち切る

ある種の病気であるとは思うのだが、僕はその場が真面目であればあるほど、その空気を壊してしまいたくなる心性を持っている。

下らないことを言って、その場を和ませたくなってしまう。

笑いの本質が緊張と緩和であるように、真面目一辺倒ではチーム運営というのは上手くいかない。

メリハリというかバランスが重要なのだ。

表現が適切かはわからないが、チームマネジメントには「勝負所」というものがある。

その勝負所に差し掛かった時に、更にエンジンを吹かして、勝ち切れるかどうか、というのが僕はとても大事だと思っている。

真面目なチームはこの勝負所においての馬力がイマイチな印象がある。

常に高い出力を保とうとしているので、そこから更に強い力を出そうとすると、どうしても息切れ感が出てしまうようだ。

この例えを継続していくとするならば、僕は通常時は法定速度で走っていて、勝負所になったらターボスイッチを入れてぶっ飛ばすというような感じだ。

そしてそれが終われば、また法定速度に戻る。

それを淡々と繰り返していく

ハレとケ

「ハレとケ」と書くと議論が重たくなってしまうけれど、僕たち日本人はそのような民族性を持っているのだと僕は思っている。

お祭りが爆発的なエネルギーを発散させる場であるように、僕は勝負所を的確に読んで、チームのエネルギーを爆発させる。

それ以外は何の代わり映えもない「日常」だ。

そういう自然な特性みたいなものを活かしてチームを運営している(別に普段はそんなことは考えてはいない。今書いていたらそういうことなのかもしれないな、と思っただけだ)のが成功の秘訣なのかもしれない。

「カタさ」=「モロさ」

僕自身が飽き性で、移り気であるのもきっとそこには関係している。

スクラップアンドビルドというか、破壊的イノベーションというか、僕は自分で作ったものを壊しながら、それを面白くしていくことに喜びを感じるタイプのマネージャーなのだ。

昨日までは良いと思っていたけれど、つまらなくなってしまったから、時代に合わなくなってしまったから、フレキシブルに組織を変えていく。

そんな流動体のようなチーム運営を僕は行っている。

もう少しカッコよく書くと、カタさというのはモロさを抱えていて、ある種の閾値を超えると、ポキっと折れてしまうものだ、と僕は思っている。

常に高い点数を取ろうと頑張っている秀才が、天才を目の当たりにして心が折れてしまうように。

努力は素晴らしいことだし、常に向上しようとすることは大切なことだ。

でも僕が多くの他のチームを見て思うのは、その「方向性」を間違えちゃいけない、ということだ。

カタいチームが突き抜けられない理由

ルールやしきたりは、あくまでもチームを良くするための「手段」であって、「目的」ではない。

でも、チームには慣性の法則があって、当初良かったそのルールやしきたりというのは形骸化してしまうものなのだ。

それは良いとか悪いとかとかいう話ではなく、そういうものなのだ。

だからこそ、時にそのルールやしきたりを点検して、時代に合わないものになっていないかを確認し続けなければならないのだ。

そしてその点検には第三者的な視点が必要となる。

自分をアウトサイダーとしながら、そこから離れた観点から、そのルールやしきたりを眺めなければ、その問題点を把握することはできない。

このコミットとオミットというか、アタッチメントとデタッチメントというか、そのような両立した立ち位置というのは、硬直したチーム運営においては生まれない。

カタいチームにいると、そのような「浮遊(遊離)」ができない。

これがカタいチームが突き抜けられない理由だ。

チームに生物性を

僕がユルいチームを好むのは、自分自身を信じながら、ある種全く信じていない、という分離した感性を同時に持っているからなのかもしれない。

先述したように、当初欠点だと思っていたのは、その自分を信じられない自信のなさから来ていたのだろう。

でも経験を経た今となっては、その自己懐疑がチームに強さを生んでいる。

アメーバのように形を変えながら、変体を繰り返しながら、チームに生物性を与えながら、その時代時代に適応していく。

ポリシーがないわけではないけれど、そこに固執するつもりは全くない。

重くなった荷物は途中で放り投げる。

それが僕の言うユルさだ。

誰もに発言権があって、決定権があって、好きなことを好きなだけ言っていい。

僕はその参加者の1人に過ぎない。

チームのパーツの1つに過ぎない。

それではまた。

いい仕事をしましょう。


あとがき

非の打ち所がないチームというのがあります。

みんなが真面目に、それこそ一生懸命に仕事に取り組んでいて、モチベーションも高く、統一感もある。

でもなぜか成果は出ていない。

僕はそういうチームを何度も見てきました。

その度に僕が思うのは、そのようなシステマティックなチームが最善とは限らない、ということです。

僕は「あそび」「余白」といったもの、ある種の「だらしなさ」みたいなものが、生物である人間が組成するチームには必要不可欠だと思っています。

その空白の部分で、人間のバイオリズムの好不調を受け止めていく、そんなイメージを持ってチームマネジメントを行っています。

よく言われる話かもしれませんが、チームマネジメントにおいて大事なのは1+1を2にする(し続ける)ことではなく、それを3にしたり10にしたり(時にマイナスになってしまうこともありますが…)することだと思います。

そのような不安定性と伸びを楽しんでいきましょう。