「心理的安全性」よりも「ちょっとした親切」を

UnsplashAnastasiia Krutotaが撮影した写真

個人主義的な日本人

心理的安全性という言葉が流行ってから、猫も杓子も「心理的安全性! 心理的安全性!」と言っているような気がするので、何だか疲れてしまっている。

というのも、いつものようにそれは掛け声だけで、誰も心理的に安全だなんて思っていないし、それが叶う未来も想像しにくいからである。

概念としては理解できる。

ただ、実現可能性は乏しい。

そのような理想像としての心理的安全性。

僕たち日本人は集団的な生活を好むとされているようだけれど、僕が職場で働いていて感じるのは、日本人というのはかなり個人主義的な生き物だということである。

世間体とか迷惑をかけたらいけないとか、和を以て貴しとなすとか、そのような考え方は、ちょっと深掘りしてみると、実は「私は私で自立しているので、あなたも同じように自立してください(私に関与しないでください)」というメッセージであるように思えてくる。

だからこそ、僕たちは何かが起きるといつも「自己責任論」を持ち出すのだろう。

「自分は自分の人生に責任がある」

「であるからして、その現在の窮状もあなたの責任である(きっと過去に問題があったのでしょうね)」

「だからあなたが何とかすべきだ(私に迷惑をかけないでね)」

このような論理展開。

そこに心理的安全性なんて生まれるのだろうか?

そんな高尚なものを目指すのではなく、現実的な解として、もう少し隣人に親切にする、という方向性はどうなのだろうか?

今日はそんな話である。

心理的安全性。無理じゃね?

「心理的安全性とは、組織やチームにおいて、自分の意見や気持ちを安心して表現できる状態を指す」

対人関係のリスクを取っても問題ない状態、それが心理的安全性である。

確かに素晴らしいことではあると思う。

そのような方向に進んでいきたいと僕だって思う。

でも、無理じゃね? とも感じてしまうのが実際のところだ。

持ちつ持たれつ感が血肉化されていなければ、心理的安全性なんて無理

対人関係にはリスクしかない。

その背後には自己責任論があるから。

本来的には、心理的安全性を確保する為には、自己責任論を超えて、それぞれのメンバーが少しずつ責任を共有する必要があるはずだ。

ある種の「持ちつ持たれつ感」。

もちろん、そこには程度や限度があるだろう。

ただ、「責任を取る主体は当然自分ではあるのだけれど、時と場合によっては迷惑をかけることもあるし、それはお互い様なので、皆もう少し頼り合っていこうよ」ということが共有(血肉化)されていなければ、心理的安全性なんてものが生まれるはずがない。

となると、ここには対立(ないし不和)が生じる。

小さな親切で先回りしたら?

僕たちは他人に迷惑をかけることは悪だと考えている。

子どもの時から、「人様に迷惑をかけてはいけない」と叩き込まれている。

「そうなのか?」というのが僕からの今日の提言である。

もっと言えば、「迷惑をかけてはいけないかもしれないけれど、それが迷惑をかけていると感じられないように、先回りにして親切にしてあげたらいいんじゃないの?」ということになるのかもしれない。

そうなのだ。

心理的安全性を確保する為のステップとして、小さな親切をお互いが意識する、ということがとても大事なことであるように僕は考えている。

意図的な共同体の解体

表現が難しいが、心理的安全性というのは、自己を表明(開示)することがお互いに違和感ない(慣れている)ことが前提であって、我々日本人は本当に近しい間柄でさえ、それを行うことはあまりない(逆にアメリカの人はそれに慣れている?)ことを鑑みると、より実現が困難であるように思えてくる。

でも、ちょっとした親切というか、思いやりというか、配慮というか、そういうものなら得意分野である。

もちろん、そういう他者との関りが煩わしくなって、僕たちは共同体というものを意識的に解体していったのだろうとは思う。

昭和っぽいウェットなもたれ合いみたいなものに嫌気がさして、それぞれの個人が自立すべきだよねその方が生きやすいよね、という方向に社会全体として進んでいったのだと思う。

そして、それはある種の成功も収めたように感じる。

でも、それは良い時は良いけれど、ちょっと弱った時というか、誰かの助けが欲しい時に、頼りづらい社会を生んでしまったようにも思える。

他人を頼ることは悪いことではないはずなのに、僕たちはそこに罪悪感を覚える。

産休・育休、介護休暇、その他の休み、早退、時短勤務、その他諸々、それら全てに何となく遠慮がちになってしまっている。

同様に、そのような人がチームにいることで、休まずに残った人にも負荷がかかり、その人も頭では理解できていても、何となく不公平感を覚えているような状態。

結果、僕たちはギスギスした関係になり、不満を漏らす。

そりゃ働きづらくなる訳だ。

ちょっとした親切を

僕はこの流れを変えたいと思っている。

というか、心理的安全性の確保までは行けないことが薄々わかってきたので、ちょっとした親切を行うことを当たり前のことにしようと思っている。

他人に迷惑をかけることには抵抗があっても、それを先回りして親切にすることはできるはずだ。

そんなイメージを持って、僕はチーム運営を行っている。

それではまた。

いい仕事をしましょう。

あとがき

ちょっとした親切ちょっとした感謝。

そんなもので十分。

心理的安全性なんてものまで行かなくても。

僕は最近そんなことを考えています。

ぶっちゃけた話、職場にいる人(他者)の心の奥なんて知りたくもないし、教えたくもない。

心理的安全性が実現できれば確かに理想的ではあるでしょうけれど、何となくしっくりこない(僕にはそれがキリスト教的な告解orグループ・セラピーのようなものに感じられるのですが、考え過ぎでしょうか?)。

でも、だからといって、現在のような自己責任論的ギスギス感も違うような気がしています。

そんな中でできそうなのが、ちょっとした親切です。

隣人愛なんてものは無理。

でも、隣人親切なら?

また、その応答なら?

機嫌良く暮らすための作法を。

そして、それは職場だけに留まるものではないはずです。

引き続き読んで頂けたら幸いです。