正論だけでは息が詰まる
それっぽいけど何も言っていない空疎な言葉
「論破」という言葉が一般的に使われるようになって久しい。
僕はあまり好きな言葉ではないけれど、議論によって相手を言い負かす(やり込める)ことを指す、ようである。
これと関連して、正論を言う(正論しか言わない)人が増えているようにも感じている。
誰からも論破されないように、正しいことしか言わない人。
論理性(のみ)を至上のものとして取り扱う人。
そういう人が増えているような気がしている。
これは企業においてもそうだ。
自分の言葉の責任を取らされること(それも激烈に)が頻発すると、できるだけ揚げ足を取られないような言葉が選択されるようになる。
かくして、国会答弁みたいな「何となくそれっぽいんだけれど、何も言っていない空疎な言葉」と、無味無臭の正論だけが存在するようになる。
ただ、正しい言葉(正論)だけでは人は動かない。
今日はそんな話をしてみる。
論理的整合性は必要だが、それだけでは人は動かない
マネジメント業務は、人を動かす仕事である。
そして人を動かす為には言葉を尽くす必要がある。
その際の拠り所になるものの1つに「論理的整合性」というものがある。
「論理が整合的である」ことはマネージャーが部下から信頼を得る為に必要な要素であるし、裏を返せば「非論理的」な人は信頼を得るのは難しいということになる。
でもだからと言って、論理一辺倒になってしまうのもそれはそれで厳しい、というのが今回の話である。
それはなぜか?
そこに感情を感じられないから、というのが僕が今考えていることである。
正論には逃げ場がない
前回の話と重ねて言うのであれば、そこに余白がないから、ということにもなるのかもしれない。
正論には逃げ場がない。
ということは、弱点もない、ということでもある。
だからこそこの時代において正論は選ばれる。
でも(更に)だからこそ正論だけでは人は付いて来なくなるのだ。
正しい言葉
コンプライアンスであるとか、ポリティカルコレクトネスであるとか、ハラスメントであるとか、とにかく現代というのは、正しいことが求められる。
そしてそこからはみ出した者に対して容赦はない。
だからこそ僕たちは自らの身を守る為に、言葉を選ぶ。
それもできるだけ「正しい言葉」を選ぶ。
それは第一義として、「突っ込まれない」ようにする為である。
何らかの落ち度があれば、それは致命的なものになってしまうから、再起不能になってしまうから、そうならないように、言質を取られないように、僕たちは正論を振りかざす。
でもそれによって失われてしまうものがある。
それを意識しているかいないかで、マネジメントの質は変わってくるのだ。
無意味な言葉だけがそこに残る
もう1歩議論を進める。
先程の話は、正論が自分に向けられたもの(自衛の為の正論)であった。
ではこれが他者に向けられた場合はどうか?
相手に対して論理的整合性を要求する。
それも「自衛の為の正論」によって身を固めた上での要求である。
当然ながら相手も身を固くする。
かくして、無味無臭の当たり障りのない話だけがその場に現れることになる。
標語のやり取りを議論と呼ぶ風潮
「言わなくても当然わかることを敢えて言うこと」「その応答を議論と呼ぶこと」に僕ははっきり言って疲れてしまっている。
それはただの声明に過ぎない。
それも空疎な声明に過ぎないのだ。
あらゆる「ツッコミどころ」を言葉から削ぎ落していった結果残るのは、干からびた栄養のない言葉だけである。
それを一方が発する。
それに対して相手方が同様の言葉を返す。
これを議論と呼ぶ風潮が僕にはよくわからない。
標語みたいなものをそれぞれがただ大きな声で話すこと。
相手の考え方や行動がそれによって変わるわけでもないただの声明。
そのやり取りを僕は不毛だと思っている。
ただ、現代においてはそれが主流なのだ。
ドライブ性を内在しない言葉
言葉狩りや減点主義が蔓延った結果、残ったのが正論である。
誰にも責められない言葉。
でも何の「ドライブ性」も秘めていない言葉。
それを日々僕たちは交わしている。
端緒(短所)がない言葉には発展性がない
僕は言葉のやり取りというのは、「思いもかけない方向に展開していくから」こそ面白いのだと思っている。
ジャズのインプロビゼーションのような即興性こそが、対話をする意味であるような気がしている。
でも「ツッコミどころのない正論」にはその端緒がない。
会話を発展させていく為の糸口がない。
それはそうだ。
その尻尾を掴ませないことが主目的である言葉を正論と呼ぶからだ。
同語反復みたいなものである。
ただ、そればかりでは人を動かすことはできない。
自分の陣地の中から、安全な言葉だけを話しているだけでは、事態は何も変わらない。
防御力の高さと沈黙
誰だって自分は可愛い。
そして一歩踏み出すことのリスクが大きすぎる時代であることも理解しているつもりだ。
でも、果たしてそれでいいのだろうか?
議論において、防御力の高さをもって相手を言いこめること、それで何か新しいものが生まれるのだろうか?
相手が押し黙っているのを、「勝った」「論破した」と思っているのであれば、それは考えが浅い。
そもそも相手にされていないことも考量に入れておいた方がいい。
少なくとも僕はそう思っている。
それではまた。
いい仕事をしましょう。
あとがき
隙のない人はモテません。
それは何も異性に限ったことではありません。
隙があることというのは、端緒があることと同義で、そこをきっかけとして議論が発展して、その場自体が変わっていくからこそ面白いのです。
そして「場」はそこにいる人間達をも変えていく。
僕はスタティックな言葉よりもダイナミックな言葉を好みます。
正論を排し、暴論を楽しんでいきましょう。