デジタルな意思決定への違和感

UnsplashGrowtikaが撮影した写真

デジタルな意思決定が是なら、人間なんていらなくね?

0か1かで割り切れること。

再現性や説明可能性。

それらによる意思決定。

それが職場に侵入してきている(そして一定の地位を得ている)ように感じている。

もちろん、昭和時代のような曖昧な意思決定が望ましいとは流石の僕も思わない。

でも、それを嫌悪(忌避)しすぎた結果、カウンターサイドに大きく振れ過ぎているようにも感じている。

ここにAIの登場という概念を足してみる。

すると、デジタルな意思決定を行う当事者は人間でなくても構わないのではないか、ということが頭をもたげてくる。

というか、むしろAIが意思決定を行った方が、余計な雑味が入ることないので、望ましいのではないか?

人間のAI化。

そのような意思決定方式。

そこに人間のマネージャーは必要なのだろうか?

今日はそんな話である。

経済合理的で説明可能的なぐうの音も出ない意思決定

意思決定は機械的に行われるべきなのだろうか?

そんなことを考えることが増えた。

というのも、僕自身が上司に判断を仰ぐ時、あまりにも合理的に判断が下されているような印象があるからである。

経済合理的かつ説明可能的であることが重要視され、そこに議論の余地は全くない。

誰がどのような角度で見ても、ぐうの音も出ないくらいの正論によって、決定がなされていく。

「それの何が問題なのか?」

そう感じる人もいるかもしれない。

「経済合理的でかつ説明可能的である決定に、何の不満を覚える余地があるのか?」

確かに。

その通りだ。

誰がどの角度から見ても正しい意思決定。

それはきっと望ましいことなのだろう。

でも、僕はここに違和感を覚えるのだ。

議論に角度を付けたくて言っているではなく

これは別に議論に角度を付けたいから言っている訳ではない。

斜めから物事を見ることによって賢しく見えることを狙っている訳ではない。

単純に「その人がそこにいる意味がなくなってしまう」ことに対して違和感を覚えるだけなのだ。

属人性の排除

経済合理的かつ説明可能的であるということは、誰がやっても結論は同じ、ということを意味する(はずだ)。

となると、そこに属人性はなくなる。

もちろん、それが狙いではあるのだ。

下手な属人性によって、意思決定が歪められることに対して、僕たちはたくさん痛い目を見てきたから。

だから、できるだけ属人性を排除する。

誰がやっても同じような結論に至るような方式を取ろうとする。

それは一見とても素晴らしい解決策であるように思える。

というか、誰しもがそれに賛同するだろう。

ただ、僕のような変人は、どうしてもここに違和感を覚えてしまうのだ。

「なら、機械でよくね?」と。

アルゴによる応答

適切な入力に対しての適切な出力。

演算子としての回答。

素晴らしきアルゴリズム。

だとすると、そこに人間が介在する意味なんてあるのだろうか?

AIの方が楽でいい

僕はある時から、人間じゃなくてAI相手の方が楽でいいな、と思うようになった。

人間と仕事をしていると、色々な面倒事が生まれるし、成果も一定ではないし、非常に面倒くさい、そのように思うようになった。

そういう意味では、僕は基本的にはデジタルな意思決定を望ましいと考えているとは言える。

ただ、そのような基本的考えを持つ僕ですら、昨今のデジタルな意思決定に対しては何だか変な印象を受けている。

それはそのような意思決定を行っている当事者に、逡巡や躊躇いが見られないことが要因であるような気がしている。

もっと言えば、そのようなデジタルな意思決定を行っている当人が、自ら能力の素晴らしさを喧伝しているように感じるからかもしれない。

何と言うか、誰がやっても同じはずなのに、それをやっている自分が凄いと感じているように僕には思われるのだ。

アルゴリズムによって決定されるものと、日本社会の親和性(とそれに対する恐怖)

デジタルな意思決定なんてものは、別に素晴らしいものではない。

ただの算式というか、アルゴに過ぎない。

そして、そのアルゴリズム用いる当人に躊躇いがないのであれば、その意思決定には責任が伴わなくってしまう。

意思決定は責任が生じることを伴うはずだ。

でも、デジタルな意思決定にはそれを薄める作用がある。

結果として、誰もその意思決定に責任を感じなくなる。

ましてや、この日本社会である。

誰も責任を取ろうなんて思うはずもない。

となると、ある算式に対して放り込まれた事象に対して、当然導き出される答えがそこに存在することになる。

そして、その答えには責任者が存在しない。

アルゴリズムがただそのようにはじき出しただけだから。

デジタルな意思決定=責任者不在の言い訳

僕はそれならAIに決めてもらいたい。

それが明らかなディストピアだとしても、責任感を伴わない人間が行うよりはよっぽどマシだと僕は思ってしまう。

結局のところ、デジタルな意思決定というのは、責任者不在という状況を抗弁する為の理由付けに過ぎないのだ。

僕たちの欠点を助長するだけでは?

経済合理的であること。

説明可能的であること。

それは確かに素晴らしいことだ。

でも、それだけではきっと意思決定というのはダメなのだと僕は思う。

そこには責任が生じる必要があるのだ。

そして、そのような責任を引き受けようとする人が必要であるのだ。

それは僕たち日本人が苦手なことでもある。

それを助長するのがデジタルな意思決定なのではないか?

僕はそんな風に考えている。

それではまた。

いい仕事をしましょう。

あとがき

責任者不在。

それが日本社会の問題点。

そんなことを考えています。

そしてデジタルな意思決定はその問題点を助長するだけでは?

だったら、いっそのこと、そっちの方向に思いっきり振ってみたら?

そのような投げやりな議論

それくらい僕は昨今の意思決定に不信感を抱いています。

AIが決める未来。

政治も経済も全てAIに任せちまえよ。

どうせ誰も責任取るつもりなんてないんだろう?

「AIの判断だから」

「AIが決めたことなんで」

というか、そっちの方がまだマシでは?

ディストピア?

もしかしたらユートピア?

こんな僕ですが、引き続き読んで頂けたら幸いです。