当事者意識こそが実力を向上させる秘訣だ

UnsplashJeremiah Lawrenceが撮影した写真

「それは私の仕事ではない」という言説へのカウンター

「できる人に仕事が集まる」

よく言われることである。

そして、それにゲンナリすることがあるのも事実だ。

そう、このような言い分から漏れ出ているように、僕には仕事が集まってくる。

そんな鼻につく言葉と、軽いマウントから文章を始めていく(これでまた読者を失うことになるのだ、きっと)。

ただ、そんな僕が最近思うのは、「自分は昔の貯金で飯を食っている」ということである。

どういうことか?

これは昨今の風潮(「それは私の仕事ではない」と簡単に言うあの感じ)とは違い、若手の頃、僕は何でもかんでも自分の仕事だと思って、貪欲に仕事に向き合っていた。

そこには今では考えられないようなハードワークがあった。

でも、その時に身に付けた色々なモノによって、それを少しずつ取り崩すことによって、今僕は仕事が出来ているとも思うのだ。

「若い頃の苦労は買ってでもしろ」

先人たちはやはり偉大である。

僕もまさにそのようなことを今まさに感じている。

そして、そのようになる為には、当事者意識がやっぱり重要だと思うのである。

今日はそんな当たり前だけれど、時代錯誤な話をしていこうと考えている。

それでは始めていこう。

ナニモノ化願望

若手の専門性志向。

彼(彼女)らと話すたびにそれを強く感じる。

「ナニモノでもない自分(現在)」「そこから離れたスペシャルな自分(未来)」。

そんなことを彼(彼女)らは漠然と考えているように思う。

そして、それは主体的に身に付けていけるはずだと考えているというか。

あまりにも甘すぎるぜ

僕はここにやや違和感を覚えている。

もちろん、気持ちはよくわかる。

でも、専門性というのはそんなに簡単に身に付けられるものではない。

また、そのようなキャリアを(主体的に)歩むには、それなりの競争力が必要となる。

もう少し厳しい言い方をするなら、かなりの才能と努力を要する。

ただ、それを兼ね備えている若手はそんなに多くない(当たり前の話だ)。

でも、彼(彼女)らは、自分がそのカテゴリーに入っているのではないかと漠然と考えている。

僕からすれば甘い考え(アイスクリームにチョコレートソースをたっぷりとかけたくらいに)だ。

そして、実力(や専門性)というのは、口を開けていれば身に付けられるものではない。

それなりの「イニシエーション」が必要となる。

でも、その覚悟はない。

だとしたら、専門家になんてなれるはずなくね?

僕はそのように思うのである。

専門家は超人たちの世界

また、彼(彼女)らに絶対的に欠けていると思うのが、今日のテーマでもある「当事者意識」だ。

これは「好奇心」と言い換えてもいいかもしれない。

自分の領域を広げていくためには、当事者意識(や好奇心)が欠かせない。

もちろん、これは一見すると彼(彼女)らが考える専門性志向とは異なる進み方のように思えるかもしれない。

どちらかというと、「深さ」ではなく「幅」を生む動きのように映るのかもしれない。

ただ、「深さ」というのは、先ほども書いたようにそれなりの才能と努力を要する(言ってみれば超人たちの世界だ)。

となると、僕を含めた一般人は、そのようなレッドオーシャンで戦うべきではない。

でも、だからと言って、専門性を身に付けることを諦めるべきでもない。

それぞれかけ離れた領域の物事を掛け合わせると、そこに専門性が生まれるからである。

以下、もう少し詳しく書いていく。

お仕着せの専門性

「専門性」というのは、提示されたモノ(既存のモノ)だけではない。

でも、彼(彼女)らと話をしていると、そのように考えているように僕には思える。

もちろん、そのような専門性はわかり易い。

ただ、それはある種の既製品だ。

「自分で専門性を作っていく」というオーダーメイドの道だってある。

単体の専門度で言えば大したことがないモノであったとしても、それを掛け合わせることで、そこには独自の専門性が生じる。

まるで化学反応みたいに。

でも、それは彼(彼女)らの意識にはないように僕には思える。

「ゼネラリストはスペシャリストではない」というか。

スペシャルなゼネラリスト

ただ、僕がそれなりに長く仕事をしてきて思うのは、「スペシャルなゼネラリストはスペシャリストである」ということである。

これは彼(彼女)らが考える「何でも屋」「全て中途半端」ということとは大きく違う。

世紀の発見は、凡庸な物事の掛け算から生まれる。

そのような考え方が、絶対的に彼(彼女)らには欠如しているように僕には思える。

専門性と希少性

冒頭に書いたように、僕には仕事が集まってくる。

そして、彼(彼女)らは僕のことを(たぶん)スペシャルだと思っている。

でも、僕自身はそれをよくある専門性だとは思っていない。

ポリバレントなだけだ。

ただ、ポリバレントであるということは、昨今のような風潮の中では、物凄く希少性が高いとも言える。

それって、結局は専門性じゃね?

そして、それを成し遂げる為には(というかどちらの道を進むとしても)、「実力」が必要なのだ。

天職とは呼ばれること

実力は当事者意識によってこそ涵養される。

「この仕事は私のものではない」というのは簡単だ。

でも、「これってもしかしたらオレの仕事かもしれない(ナニモノかに呼ばれている)」と思うことで、仕事というのはその面白さを増していく。

それが「calling(天職)」という意味なのでは?

僕はそう思うのである。

それではまた。

いい仕事をしましょう。

あとがき

「正直者が馬鹿を見る」のが現代社会です。

でも、正直者だけが実力を付ける機会を得ることができます。

たくさんの人たちが「それは私の仕事ではない」と宣う中で、「あ、それ、もしかしたらオレの仕事かもしれない」と思えるなら、あなたには専門家になれる素質があります。

余計なことにどんどん首を突っ込んでいきましょう。