問いを投げる

自分の頭で考えることが否定され続ける文化

「部下が受動的で困る」という話をよく聞く。

そして「確かにそういう部下ばかりだよな」と思う。

自分の経験を振り返っても、「自分の頭で解決方法まで考えられる担当者」というのはほとんどいなかったように思う。

ここには多分に教育が影響している。

上手く表現できないのだけれど、日本社会においては「答え」というのは(親・教師などの「上位者」から)「与えられるもの」であって、「自分なりの答え」を考えることはネガティブなことである、それを表現するなんてもっての外、というような風潮(根底概念)があるような気がしている。

そうやって育ってきた人達が、いきなり自分の頭で考えて、それを表現する、なんてことは起こりえない。

たくさんの独創が否定され続けてきた結果が、羊の群れみたいな社員の増加になっている。

その流れを少しでも変えることは可能なのか?

僕は可能だと思っている。

今日はそんな話をしていこう。

問い=糾弾?

今日のタイトルである「問いを投げる」というのが、この流れを変える為の1つの提案である。

ただ注意して欲しいのは、「問う」ということが日本社会では「否定」「糾弾」に繋がりがちなので、そうではなく、フラットかつ対等な立場から尋ねる、というというイメージで行う、ということである。

想像して欲しい。

職場において、「なぜそれをしたのか?」とマネージャーのあなたが部下に問うたとする。

たぶん、十中八九その部下は「怒られている」と思うはずだ。

「自分のやったことが間違っていた」と思うはずだ。

上位者からの問い、というのは、必然的にそこに「パワー」を内包する。

それはある種構造的なものなので、意識的に「パワー」を減らす努力が必要となる。

そういう意味では、「問い方」がとても大事と言えるだろう。

答えがないことを前提とする

ではどのように問うのか?

それは、「答えなどない」ということを前提に問う、ということなのだと思う。

旧時代であれば、「答え(成功の筋道)」があったので、それを指し示し、組織が一体となってその「答え」に向かって走れば、成功が確約されていた。

でも現代はそうではない。

何が「答え」なのかわからない。

そしてマネージャーが「答え」を知っているとは限らない。

これを前提として問い、話を擦り合わせていくことが大事である。

対等な立場でアイディアを問う

重要な概念は「対等」である。

フラットな地平に立って、横並びでうんうん唸る、二人で正解を探す、そういうアイディア出しの1つとして、「なぜ(どういう意図をもって)それをしたのか?」ということを問う。

純粋な興味、好奇心、と言い換えてもいい。

そうやって出てきたこと、その回答について、また議論をする。

正解とか不正解ではない。

出てくるのは1つのアイディアである。

答えとアイディア

大事なのでもう一度言う。

「問い」の対となる言葉は「答え」ではないのだ。

「問い」の対となる言葉は「アイディア」である。

出てきたアイディアついての意見(見解)を述べる。

もちろん出てくるものが面白いものであったり、陳腐であったり、そのアイディアの質の差はあるだろう。

でも、「面白い=正解」「陳腐=不正解」ではないのだ。

あくまでも、問いに対する「通路(理路)」、考え方の筋道、どのような道を通ってそのようなアイディアに至ったのか、それを確認する、というのが大事なのである。

これを日常的にやっていく。

なぜなぜ坊やとして

マネージャーという仕事上、僕はよく部下から「どうしたらいいでしょうか?」ということを問われる。

その時に、「どうしたらいいと思う?」と問いを投げることを習慣化している。

部下達も僕がそれを否定的に言っているわけではないということを理解しているので、悩みながらも「こうしたらいいと思います」と答えてくる。

それに対して、「なぜそう思うのか?」ということをまた返す。

否定的なニュアンスをできるだけ排除して。

すると、部下は「なぜそう思ったのか」を説明する。

それが納得的であればそのように進めれば良いし、納得的でなければ議論を続ければいい(納得的でない場合も否定しないことは意識をしたままで)。

これを意図的に繰り返していくしかない。

文化を変えるのは難しいけれど…

「意見の表明」は日本社会においてはかなりのハードルがあるように僕は考えている。

それは何も上位者との関係に限ったことではない。

「恥」の文化「空気」の概念など、集団内で「個」や「私」を出すことが、極端に抑制されているのが日本である。

意見を表明した途端、「あいつは目立ちたがり屋だ」とか「生意気だ」とか、発言内容よりもその表明したという行為に対してネガティブな判定を自動的に下してしまう。

長い教育機関を経て、そういう状態が当たり前であると体に染みついている人達は、自ら考えるということすら放棄してしまう(考えても表現する機会がないし、意を決して表現したとしても否定されるため)。

そんな環境で育ってきた人達が、いきなり自分の意見を述べるなんてことは起こらないのだ。

だから、「部下は受動的」なのである。

それがデフォルトなのである。

長い道のりではあるけれど、そのような状態を少しでも変えていく為には、自分で考えたことを表明することは悪いことではない(むしろ歓迎される)ということを徐々にでも認識してもらう他はない。

それがチームの見えない力となるのだ。

それではまた。

いい仕事をしましょう。


あとがき

今回の話は日本社会における割と根源的な話であって、一朝一夕でどうにかなる類のものではないと僕は考えています。

ただそれを甘んじて受け入れていて良いのだろうか?

僕はそんな風に考えています。

現況の社会状況において、意見を表明するということにはリスクしかないですが、それでも出来得る限りで僕はそれをやっていこうと思っています。

共感頂けたら幸いです。