正しさは正しくない
気持ちはわかる。でも…
マネジメントをやっていると、「こうあるべきだ」という規範に囚われてしまいそうになる。
あらゆることに対して、そうじゃない現実に対して、イライラしてしまうようになる。
「今は間違っている」「だから正すべきである」
その誘惑の気持ちはわからなくもない。
実際に僕もそうであったから。
でも、ある程度長くマネジメントという仕事をやっていると、「そうも言っていられないんだよな…」と思うことが増えてきた。
若いマネージャーと話すたびに、その真っすぐな情熱を浴びるたびに、そのように思うのである。
ただ同時に、「その感覚は伝わらないだろうな」とも思うのだ。
今日は「正しさは正しくない」というテーマで話をしていく。
ある程度マネージャー経験を積んだ方には参考になるかもしれない。
それでは始めていこう。
作用と反作用
「作用と反作用」という物理の基礎で習ったようなことを最近はよく考えている。
「入力と出力」でもいい。
「エネルギー保存の法則」でもいい。
とにかく、「ある力を及ぼすと、それと同じだけの反対力が生じる」ということをマネジメントをやっているとよく思うのだ。
そして物理学とちょっと違うのは、その反作用が瞬時に生じる訳ではなくて、ある程度の期間を経て生じ、累積的には作用と反作用の力が合う、ということである。
短期的には収支が合わないけれど、時間をかければ収支が合うというか。
因果応報というか。
そんなことを思うのである。
正しさは「反正しさ」を生む
今回のテーマである「正しさ」というのもその一種である。
ある事象に対して、マネージャーがある「正しさ」を主張したとする。
そしてそれは客観的に見てもまあ正しいとする。
でも、その正しさの入力が、自分が願っている出力を生み出すとは限らないのである。
というよりも、むしろ違う出力を生じさせ、結果的に事態が悪化することがよく起こる。
当初の「正しさ」の入力が強ければ強いほど、それに伴って生じる出力もそれだけ大きくなる。
でも、入力と同じタイミングではその出力は返ってこないので、同じくらいの強さの出力が生じているとはマネージャーは気付かないのである。
時間差・タイムラグが生じているだけなのに、それが上手くいっているとマネージャーは勘違いをしてしまう。
そしてさらに次の正しさを進めていく。
その「正しさ」はまた時間をかけて、次の「反正しさ」を生む。
そうやって歪みはどんどん大きくなっていく。
地震におけるP波とS波みたいに。
正しさよりも正しい状態を
マネジメントをやってきて、諦めの気持ちと共に僕が思うのは、大事なのは「手段よりも目的」である、ということだ。
ここで言う手段は「正しさ」で、目的は「正しい状態」である。
以前の僕は、「正しさ」という手段の先に「正しい状態」という目的があると思っていた。
「正しさ」という道を進んでいけば、「正しい状態」というゴールに辿り着くことができると思っていた。
でもそうではないのだ。
当たり前の話だけれど、僕が思う「正しさ」というのは僕だけの「正しさ」でしかなくて、それが万人にとっての「正しさ」ではない。
1つ「正しさ」を主張すると、1つ「正しくなさ」が生まれる。
そうやって、進む道はどんどん険しくなっていく。
美学は不要
だから、最近の僕は手段はどうでもいいのではないか、と考えている。
目的が叶うのであれば、そのやり方というのは別に正しくなくてもいいのではないか、そんな風に考えている(ここで言う「正しくなくてもいい」というのは、悪いことをしてもいいということではなくて、自分の中の正義に反してもいいのではないか、という意味である)。
格闘技で例えるなら、立ち技だけで戦いたいし、勝ちたいと思うのだけれど、それだけではなくて、寝技も関節技も使えばいいんじゃない? という感じである。
そこに無用な拘りや美学やポリシーはいらない。
目的を叶えることが重要なのである。
正しさは僕たちの生活圏を狭めていく
何というか、世の中には正しさが溢れている。
反論できないような正論は、もちろん正しいのだけれど、何も生み出さない。
正しさは、生きづらさを助長する。
そうやって僕たちはまた自分達の生活圏を狭くしていくのだ。
ポリティカルコレクトネス。
清潔な世界。
至上の楽園。
ユートピア。
言葉は何でもいい。
でも、僕は「酸いも甘いも」みたいな世界の方が面白さを感じる。
誰かのユートピアは誰かのディストピアになり得る
正しさは動きを封じる。
マネージャーの正しさは、部下の行動を縛っていく。
そういうミニマムな世界、箱庭の王、になることに、僕は何の魅力も感じない。
息がつまる。
そして、もしあなたの願いが叶った時、全ての正しさが報われた時、そこにあるのは本当にユートピアなのだろうか。
ある一人の正しさが完全に適用される世界。
それは僕からしたらディストピアでしかないのだ。
逞しく残る残滓にこそ生命力は宿る
僕は猥雑さを愛する。
正しさを汚されること、暴論を愛する。
そうやって議論は面白くなっていく。
僕だけの正しさをやり込められて、たくさんの妥協を経ながら、それでも逞しく残る残渣みたいなものに僕は魅力を感じる。
そこに生命力を感じる。
それではまた。
いい仕事をしましょう。
あとがき
曲がったことが大嫌い(by原田泰造)。
それは僕も一緒です。
でも、マネジメントをやっていると、そうも言っていられないのが現実でもあります。
もしかしたら僕も腐った大人の仲間入りをしているだけなのかもしれませんが、正しさを主張している人を見ると、「子供っぽいな」と思ってしまうのも事実です。
誰もが納得することは起こりえない。
その単純な事実は、僕を正しさの呪縛から解き放ってくれているような気がします。
ドロドロ、ズルズル、逞しく仕事をしていきましょう。